毎日の礼拝

校長のお話

2012/02/09

「陽だまりの彼女」(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17~18節)

越谷オサムという小説家の作品に「陽だまりの彼女」があります。
話の始まりは恋愛小説のようであり、途中からミステリー調になり、この先どうなるのかと思っていると、だんだん悲しい話になり、読み終えると、これはファンタジーだったのだか、というような気分になる作品です。
この作品に描かれているのは、あるべき人間関係です。
こういう人間関係を大切にすることが、どれほど人生にとって必要なことなのか、幸せをもたらすのか、ということがわかります。
 

主人公の奥田浩介は25歳の広告会社に勤めるサラリーマンです。
浩介は取引相手の会社の社員としてやってきた渡来真緒と10年ぶりに再会します。浩介は目の前にいるカッコいいキャリアウーマン風の女性が中学の同級生だとは全く気づきませんでした。もらった名刺には確かに「渡来真緒」と書かれていますが、それが自分の知っている渡来真緒と、最初どうしても重ならなかったからです。
真緒は中学一年生の時に浩介のクラスに転校してきました。
しばらくしてわかったことがあります。
それは彼女が漢字がとても不得意であり数学もほとんどできない、ということでした。
他の教科も似たり寄ったりでした。
彼女が、勉強が苦手であることがわかってくると、クラスの人間は次第に彼女を「学年有数のバカ」と呼ぶようになり、イジメの対象にしていきます。
ある日、潮田という女子生徒が、真緒の髪の毛に給食のマーガリンをべったり塗ろうとします。それを目の当たりにした浩介はガマンできなくなり「いいかげんにしろ」と大声を出します。
その声に振り向いた潮田は、あんたは正義の味方か、と言いながらせせら笑います。かっとなった浩介は潮田からマーガリンを奪い取り、逆に彼女の髪の毛や顔に塗りたくりました。
この事件の発端は潮田の行為にあり、そして一連の出来事の原因は真緒をイジメるクラスの人間にあったのですが、悪いのはすべて浩介ということになってしまいます。
実に理不尽な話ですが、そのあたりのことが次のように書かれています。
「担任が真緒の髪に気づかなかったふりをした理由が、今ならなんとなくわかる。早い話が、大ごとにしたくなかったのだ。マーガリン事件をクラス全体が関わるイジメ問題の一角としてではなく、一人の生徒の「ご乱心」で処理したかったのだ」。
その日から浩介は「キレると何をするわからない危険人物」とみなされるようになります。
3年生になって今度は浩介が転校することで、浩介と真緒の交流も途絶えます。それが10年後に偶然再会したのです。
 

初めに言いましたように、この作品が教えてくれるのは、人間をどのように見るのか、一つの物事をどのように見るのか、その視点の大切さです。
私たちがしばしば経験することに、ある一つの出来事、それがどちらかと言えば、思い出したくないことであったり、あってほしくないことであったりしても、少し角度を変えてみれば、違った見え方がすることがあります。
その時にはゆるせないことであっても、時間が経てば、それはそれで意味のあることであることに気づかされる場合があるわけです。
今日の聖書の言葉「見えないものに目を注ぐとは」はそのことを言っています。
どの視点から自分を見つめ、他者を見つめ、社会を見つめることが、自分の幸せにつながるのでしょうか。多数者の目で見るのか、少数者の目で見るのか、それによって、一つの出来事は全く違う見え方をするようになり、本当の意味でいい人生になるかどうかが決まります。
一人の生徒を取り囲んで、マーガリンを髪の毛に塗るということが、どれほど人格を傷つけることになるのかを、この作品を読む人のほとんどがわかるはずですし、腹さえ立つはずです。潮田に同調する側に自分を置きながら読む人はまずいないでしょう。
ところがその人が、当事者になった場合、マーガリンを塗らないまでも、潮田がすることに同調する、はやし立てる側に身を置くということは、気づく気づかないかは別にして、現実には少なくないのです。
浩介のように、それがゆるせなくて批判したり、止める側に立つということは、少ないのではないでしょうか。
少数者の立場に立つことが人間にとってどれほど大切なことか、多数者の側に立つことが、時としてどれほど他者を傷つけることになるのか、それがわかりながら、私たちは、自分の力でそうした自分を変えることも、社会全体を変えることも、なかなかできないのです。
浩介にしても真緒をかばったのも、彼女に対するイジメが余りにも酷くて、我慢できなくなったから、思わず声を出してしまったのであって、それまで彼自身も渡来真緒を「とてつもなく頭の悪い生徒だ」と見下げていた部分があるわけです。
そこに、言うなれば私たちのどうしようもない人間的弱さがあります。そのように、誰もがどうしようもない弱さを持った私たちです。
 

その私たちに聖書はイエス・キリストの存在の意味を教えてくれます。
同時に生きる道が示されているのです。
聖書には、イエス・キリスト、イエス様は私たちの弱さ、罪を背負って十字架に架かって下さった、それによって私たちは、なお許されて、今を生きることができる、と書かれているのです。
イエス様は徹底的に少数者の立場を生き抜かれました。少数者の目ですべてを見つめられた方です。そして十字架に架けられました。
聖書には、そのイエス様が私たちの救いであり、私たちの人生を導いて下さる、だから落胆しなくてもいいと書かれています。
恥ずかしい話ですが、この年齢になっても私自身、自分の弱さを嫌と言うほど自覚させられることが多い毎日を過ごしています。
だからこそ、イエス様に助けられながら、一日一日、新しい一週間を生きていきたいと、心から願います。