毎日の礼拝

校長のお話

2011/11/01

「21グラムの真実」(ヨハネの手紙1 5章11~12節)

「21グラムの真実」という映画があります。
主人公はそれぞれ別の場所で生活をしている3人です。
全く関係ない場所で生きている3人が、交通事故をきっかけに出会うことになります。主人公の1人目はポールです。
彼は大学の先生でしたが、心臓の病気になり、余命一か月を宣告されます。
彼が生きるためには、唯一心臓移植しかありませんでした。
2人目はジャックです。
彼は事件を起こしては、何度も刑務所に入るということを繰り返していましたが、それでもそういう生活から抜け出そうと必死になります。
そして友達の紹介で就職して一生懸命働き、落ち着いた生活を家族とともに送っています。
もう一人の主人公は女性でクリスティーナです。
彼女は夫と二人の子どもとは円満な家庭生活、幸せな毎日を過ごしていました。
事件はある日突然起こります。
クリスティーナの夫と娘たちが交通事故でひき逃げをされたのです。
娘たちは即死、そして夫は脳死状態になります。
ジャックがひき逃げ犯人でした。
彼は事故を起こして気が動転して、家に逃げ帰ってしまったのです。
クリスティーナは悲しみにくれますが、脳死状態になった夫の心臓移植をすることを承知します。
その心臓が移植されたのがポールでした。
臓器移植がされる場合の約束事に、提供される側もする側も、お互い誰か一切知らないでいるということがあります。
もしそれがわかると、感情的なもつれや利害関係が起こってしまうからです。
当然クリスティーナも夫の心臓がポールに移植されたことを知りません。
交通事故を起こして気が動転して、家に逃げ帰ったジャックですが、少し落ち着いてくると、自分のしたことの重大さに気づきます。
そして、警察に自首をしました。
心臓移植を受けたポールは健康を回復するのですが、やがてどうしても自分に心臓を提供した人間の家族に会いたいと思うようになり、私立探偵を使って調べます。
こうして、会ってはいけない者同士のポールとクリスティーナは出会うことになります。
やがてクリスティーナはポールに、ひき逃げ犯人のジャックを殺すように求める、という展開していくのが「21グラムの真実」という映画です。
 

タイトルの「21グラム」は、20世紀の初めにアメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルが行った実験結果の数字から取ったものです。
ダンカンは、人が死ぬと僅かに軽くなるということに気づきます。
そこでどのくらい軽くなるかとの実験を行いました。
その結果、人間は誰でも死ぬと21グラム軽くなるという実験データを発表しました。
21グラムというのは、人間の体重からすれば、決して大きな数字ではありません。
ボクシングのようなスポーツは別として、普段の生活の中で21グラムという重さはそれほど大きな数字ではありません。
しかし、その21グラムが命の重さを表しているとしたら、少し考えが変わってきます。映画21グラムの真実から考えられるのは、命の重さは、数量計、体重計で測れるものではないということです。
命の重さは人間関係の中で考えるもの、その人がどのように生きたかということを通して考えるものだということです。
 

3年生の社会科の選択科目に倫理があります。
倫理は大学受験のためのセンター試験で社会科の中で人気のある科目です。
それは点数がとりやすいからです。
ほとんどの高校が暗記科目として扱われていますが、倫理は暗記科目でしょうか。
違います。
倫理は命の重さを考える、生きる力を考える科目です。
もう少し突っ込んでいうと、他人との関係はどうあったらいいか、自分はどうあったらいいかという、生きていくためにどうしても考えなければならない、そして正しい答えがないことについて、「こう考えたら、こうなるよ」ということを学ぶのが倫理です。
それを学ぶことが「このクラスをどうすればいいのか」「友人とのトラブルをどう解決すればいいのか」といった具体的な問題を考える際の話し合いにつながります。
その意味で倫理は大切な科目です。
倫理を別の言葉にすると哲学です。
命の重さを考えることは何より大切ですから、フランスの高校では、倫理は必修で週に6時間の授業があります。
その倫理が日本の高校では選択科目であり、たいていの学校では暗記科目として扱っています。
敬和学園の倫理の授業はまさに倫理、つまり暗記科目ではなく命の重さを考える時間になっています。
それに加えて気づかされることがあります。
敬和学園はこうして毎日全校礼拝をしています。
この礼拝は、一人になって、自分の存在の意味や、どのように生きたらいいのか、正しい答えがない問題について考える時間です。
つまり、全校礼拝は倫理・哲学そのものだということです。
それを毎日しているのです。
1年に200日、3年に600日礼拝を行っています。
敬和生はフランスの高校以上に、命の重さを考えることを、どのように生きればいいかを、毎日の学校生活の中で考えているのです。
 

敬和生にはやさしい人が多くいると言われます。
それも1年生よりは2年生、2年生より3年生がやさしい人が多いと言われます。
優しいというのは気が弱いということではありません。
敬和生は命の重さを考えることを毎日、礼拝などを通して、他者の事柄を自分のこととして考えることができるようになっています。
それが、他の人からすると、優しく見えるということなのです。
それに加えて、敬和学園は聖書の時間や全校礼拝を通して、イエス・キリストの十字架の意味を考えます。
聖書には神さまがわが子イエス・キリストを十字架につけて死なせたことが書かれています。
神様はイエス・キリストの命と引き換えに、人間を許されたというのです。
わが子キリストを十字架に架けるということは、それほど、人間の命は重いということなのです。
命の重さを考えるというのは決して抽象的なことではありません。
それが、自分の身に起こる問題や社会全体の課題を考える時の力や解決に向けての力になるのです。
敬和学園の学校生活を通して、そういう力を持つ自分になっていっているということに気づくとともに自信を持って下さい。
それでは今日から始まる新しい1週間、そして明日から始まる11月も、共に支え合いながら歩んでいきましょう。