毎日の礼拝

校長のお話

2011/09/14

「ザ・ウォーカー」(ルカによる福音書10章33~37節)

ザ・ウォーカーという映画があります。
時代は核戦争によってほとんどのものが失われた北アメリカ大陸です。
主人公はデンゼル・ワシントン演じるイーライという男です。
彼はウォーカーと呼ばれていました。
ウォーカーをそのまま訳せば「歩く人」になりますが、この呼び名の通り、彼は西の方角に向かって30年間歩き続けていましたが、それは時々「西に向かって歩け」という声が頭の中に響いてきたからです。
イーライのスタイルはまさにウォーカーと呼ばれるにふさわしいものでした。
足元はウォーキングシューズ、雨風や寒さを防ぐためのコートとパンツ、そして必要なものはバックパッキングにして背負っています。
イーライがひたすら歩き続ける理由は、世界に一冊だけ残されたある本を持っていて、それを西の方角に届けるためでした。
その本は表紙が皮で作られ、頑丈な鍵が付けられていました。
そして、その本の存在を知った者は、それを奪おうとします。
その度にイーライはそれを防ぐために大きな短刀とショットガンで戦います。
そういう厳しい毎日を生きていましたが、夜寝る前には、必ず、その本をそっと取出し、心静かにそこに書かれている言葉を、指先でたどりながら読むのを習慣にしていました。

 

主人公であるイーライにはその本が何かわからないのですが、映画を見ている私たちは、その本が何かだんだんわかってきます。
それは聖書でした。
その聖書を西の方角に運ぶのが彼に与えられた使命だったのです。
それでもわからないのは、なぜ聖書を西の方角に運ぶのかでした。
イーライがある町にやってきます。
そこは、汚染されていない水を独占するカーネギーがすべてを牛耳っている町でした。
カーネギーも聖書を必死に探していました。
彼は水や食料によって、つまり力と物質によって町の人たちを支配していましたが、そうしたものはやがてなくなります。彼は自分が独裁者として権力を持ち続けるためには、町の人たちの心を支配しなければならない、それができるのは、聖書に書かれた言葉であると考えていました。
やがてカーネギーはイーライが聖書を持っていることを知ります。
ここから聖書を巡って激しい戦いが始まります。
 
それにしてもイーライは30年間、目的もはっきりわからないまま、つまり生きる目的が何かわからないまま歩き続けることができたのでしょうか。
そんなことはあり得ないと思われがちですが、でも考えてみれば、私たちもあまり変わらいのです。
このチャペルの中には今700人近い人がいますが、この中で、自分がなぜ生まれたのか、そして何のために生きているのか、その目的や理由がはっきりわかっている人、残念ながら私も含めて一人もいないのです。
それを考えるためにここに座っているわけですが、その意味で、私たちもまたイーライと同じように、歩き続けるウォーカーと言えるのです。
イーライはカーネギー一味との銃撃戦をかいくぐり、うまく逃げて、再び西に向かって歩き始めるのですが、ところが彼を追って町を逃げ出してきた少女の命を守ろうとして重傷を負ってしまいます。
そして聖書もカーネギーに奪われてしまいます。
こうしてイーライはその本・聖書を失うことになりました。つまり歩く目的、生きる目的を失ったわけです。
それにもかかわらず、再び力を振り絞って西の方角に歩き出します。
一方聖書を手に入れたカーネギーは、これで自分は独裁者として絶対的な力を持てると喜び、聖書を開きました。
その瞬間絶望的な叫び声をあげます。
それは確かに彼が求めていた聖書でした。
しかしその聖書は点字で書かれていたのです。
目の不自由な人のための、指先で読んでいく点字です。
点字を知らなければ目の前に聖書があっても読むことはできません。
イーライが指先でたどりながら聖書を読んでいた理由がここで明らかにされます。

 

イーライは聖書を奪われた絶望的な状況、重傷を負いながらも、助けた少女に今度は助けられながら、そして、心に響いてくる言葉に従いながら西の端に浮かぶ島にたどり着きます。
そこはかつて刑務所があったアルカトラズ島でした。
そこでイーライが始めたこと、それは30年間毎晩心静かに読み続けたことによって、すべての言葉を暗記していた聖書を暗誦し、それを書き写してもらうことでした。
聖書のすべてを暗誦し終わった夜、彼は静かに息を引き取ります。
イーライは聖書の言葉を暗誦しながら、そして自分がなぜ希望を失うことがなかったのかを理解します。
それは大事にしなければならないのは、本になった聖書ではなく、その中に書かれた言葉だということでした。
その言葉を知っているだけではなく、その言葉に生きるということでした。
その言葉によって、人は絶望的な状況になっても、なお希望を失うことがないということでした。
イーライは聖書の言葉に生きること、行動することが、自分がウォーカーとして歩き続ける、生きる目的であることがわかったのです。

 

聖書は長編です。一回読み通すためには相当時間がかかります。
そのたくさんの言葉を使って書かれた聖書の中身をイエス様は一言い表わされました。
それは敬和学園の建学の精神でもある「神を愛し隣人を愛する」です。
「神を愛し隣人を愛する」が意味することは平和です。
すべてのものが平和に生きることです。
そのように考えていくと、私たちが生まれてきた究極の理由が何かがわかります。
それは平和な世界を作るためにです。
そのために、ここにいる一人ひとりが選ばれて命を与えられたのです。
その平和を実現するためには、一人ひとりが聖書の言葉を大切にし、その言葉に生きるこが何より求められているわけです。
今日の言葉でいうならば、「行って、あなたも同じようにしなさい」ということです。助けを必要とする隣人のために、できることを具体的な行動にする、それがその人を助けるだけでなく、自分を本当の意味で生きた人間にすること、それが、私たちの生きるこの社会を生きやすい、居心地のいい場所にしていくことになり、つまり平和にしていくことなります。
それが同時多発テロから10年、そして東日本大震災から半年を迎えた今、持たなければならない感覚です。
そのために、この自分に命が与えられているのです。
これほど大きな生きる理由はありません。
小さな存在である自分に大きな使命が与えられている、それを喜びとしてこの1週間共に歩んでいきましょう。