毎日の礼拝

毎日のお話

2024/04/26

鈴木 明香(国語科)

【聖書:テサロニケの信徒への手紙一 12章 20-22節】

「だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」

 

 あるテレビで「一芸家電」が取り上げられていました。

 例えば、焼きそばと謳われながらも焼かれていないペヤングを、実際に焼くホットプレート。これは『ペヤング』に特化し、ペヤング向けに温度設定を最適化したもので、通常の2倍のフッ素樹脂加工を施しており、油を使わずに『ペヤング』が焼けるとのことでした。ペヤングを焼いて食べたい人に人気の商品らしいです。

 また、自動カップ麺メーカーなるものもあります。機械の上の部分に水を入れさえすれば、あとは自動で沸かしてくれて、さらにカップにお湯まで注いでくれるそうです。そして3分経ったらアラームでお知らせしてくれるそうです。こちらは、鍋を火にかけたまま忘れてしまう人、熱湯をカップにそそぐのが苦手な人、3分計っていることを忘れてしまいがちな人に人気の商品らしいです。

 私がこれらの商品に感動した点は、大きく2つあります。まずは商品を考えた人の、発想のすばらしさです。きっと「こういうものがあったら便利だろうな」とか「こういうものがあったら助かる人が居るんだろうな」とか、そんな視点を常に持ち続け、世の中を見ているんだろうなと思いました。自分が生まれた時から当たり前のように存在している日常のあれこれを、疑ってみる視点。私はこれまで何度も世にあるカップ焼きそばを食べたことがありますが、実はそれが作る工程で一度も焼かれていない、にもかかわらず「焼きそば」と謳われているということに、私は数年前まで気づきませんでしたし、ましてやそれを実際に焼いてみようと思ったこともありませんでした。何も疑うことなく、そのネーミングを受け入れ、与えられた作り方に従い調理し、普通においしくいただき、満足していました。でも、ペヤングカップ焼きそばを焼くという、先の商品を開発した人たちは違います。常にアンテナを張り巡らせ、常識を疑う。自身の観察力と、そして想像力や発想力でもって、常識を常識とみなさず、疑問を抱く。するといろいろなことが見えて来て、新たな商品が生み出され、誰かの喜びとなっていく。そこに大きな感動を覚えました。この「自分では気づけない視点」というのは、実は敬和ではかなりの頻度で得ることができると感じています。それがこの礼拝です。誰もがみな1日は24時間という枠の中で生活し、平日はその多くを同じ敬和という場所で過ごしているにもかかわらず、ここでお話してくださる先生や生徒の皆さんは、私には全然見えないもの、気にも留めなかったことに着目し、疑問を抱き、そこから気づきを得て、それを礼拝でお話してくださいます。何て貴重な時間だろうと思います。

 2つ目に感動した点は、商品のブレのなさです。さっき挙げた商品は、きっと万人受けを狙ったものではないはずです。それはごくごく一部ではあるだろうけど、その商品を必要とする人たちの思いに全力で応えるべく工夫がいたるところに施されたものです。その商品を見て、「馬鹿だな~。くだらないな~。」と思いつつ、それでもくすっと私たち消費者が笑ってしまうように仕上がっているのは、きっとその商品が細部に至るまで徹底的に考えつくされ、妥協がなく、痒い所に手が届くような心遣いがある、そんな全力で作り上げられた一品だからこそなのだと思います。そこに、開発者の徹底した姿勢というか、その商品の揺るがない軸というか、「私は私、こういう商品なのよ」といった、周りに流されない自信、強さまでも伝わってくるように感じました。

 100人いたら100人に好かれる必要はありません。どんなに素晴らしい物でも、100パーセントの人に受け入れられるということは、まずありえないからです。1年生は新しい環境で多くの同級生と毎日一生懸命かかわっています。2年生もクラス替えがあり、特にクラスでの人間関係を広げようと頑張っているのではないでしょうか。3年生も連合が決まり、これからリーダーとして新たに付け加えられた肩書とともに歩んでいくことになります。「私はあの人たちに受け入れてもらえない。どうしよう。気に入ってもらえるように何とかしなきゃ」と気に病んでいたらきりがないし、何よりもそれにびくびくしてしまうことで、肝心な自分らしさを見失ってしまうかもしれません。「そのままのあなたが好き」という声に、気づかなくなってしまうこともあるのではないでしょうか。万人受けを目指すことは悪いことではありません。でもそのままの自分を本当に必要としてくれている人のために、自分らしさ、自分にしかできないことをとことん追求していくことで、ぶれない強さを手にいられるのではないかなとも思います。余談ですが、昨日女子バレー部の大会があり、私も一緒に行ってきました。試合にはぼろ負けでした。昼食休憩の時、ギャラリーでご飯を食べていると、ある生徒が私のところに来て「ティッシュ持ってますか?」と聞いてきました。私はもっていたおしぼりを渡すと、その生徒はそれをもって、他校がお昼ご飯を食べているところへ向かっていきました。敬和の生徒も何人か一緒に行っていました。戻ってきた彼女たちに話を聞くと、他校の生徒が、お昼ご飯のサラダをこぼし、床やいすに散らかってしまったそうです。そんな様子を敬和の生徒は見て、ティッシュやおしぼりをもち、一緒に片づけを手伝ったとのことでした。私はその話を聞いて、本当に嬉しかったし、誇らしかったです。私と一緒にいた他校の先生も、「試合に勝つなんかよりよっぽど大事なことだ」と絶賛してくださいました。そんな「自分」「自分にできること」を大切にする人たちが集まるクラス、学年、連合、敬和は、きっと今日の聖書個所のような、真の強さを持つ集団になるんじゃないかなと思いました。何より、私たちは神様から必要とされているから、ここに存在しているわけです。必要とされている自分なのだから、あとは他者のために、徹底的に自分ができることを追求していく1日1日を過ごしていきたいなと私自身も思っています。