毎日の礼拝

毎日のお話

2024/04/25

野間 光顕(寮長)

【聖書:テサロニケの信徒への手紙一 2章 7-8節】

「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。」

 

 みなさん、おはようございます。

今年度よりのぞみ寮の寮長を務めています野間と申します。

敬和学園には、このチャペルや労作の授業、美味しいランチや楽しい行事など、他の学校には見られない魅力的な特色が数多く存在していますが、その中でも、生徒たちが親元を離れ集団生活を送る「のぞみ寮」も、敬和の創成期から大切にされている、集う人々の個性が溢れる素敵な所です。1年生の通学生で特に「友達が欲しい」と願っている皆さん、今からでも遅くありません。ぜひ寮生活にチャレンジしてみてください。親元を離れて、多くの友人や先輩・後輩の中で生活する事により、新しい仲間と幅広いつながりを持つ、そしてより深い所にある自分の魅力や可能性を見出す事ができるようになります。ランチを食べる友愛館横に寮本部事務室があるので、関心がある人はいつでも覗いてみて下さい。

 そんな寮で働いていると、生活のあちこちでハッとさせられる事があります。寮本部にはたくさんの荷物が毎日届きます。その多くは、保護者が寮生に宛てて送ってくれたお菓子やカップ麺などの仕送りです。夕食に来た寮生に「荷物が届いているよ」と告げると、「やった‼」と嬉しそうな声と共にその生徒の表情がパッと明るくなり、夕食後には早速その箱を開けて友達や兄弟にそのお菓子を分けてあげている人もいます。中にはお菓子と一緒に入っていた手紙を嬉しそうに読んでいる生徒もいます。

 先日も入寮したばかりの1年生とこんな会話を交わしました。一人の男子生徒、入寮したての頃はすごく緊張した表情だったのに、一ケ月もたたないうちに多くの友人や先輩方と楽しそうに談笑しながら友愛館にやって来ました。その表情の変化に確かな成長を感じた私は嬉しくなって「~くん、寮生活はどう?」と質問しました。すると彼はニコッと柔らかい笑顔を浮かべながら「想像していたより楽しいです」と答えてくれましたが、その後に続いた言葉が私の想定を超えるもので驚かされました。ニッコリ笑っていた彼の表情がちょっと恥ずかしそうになって「ただ、洗濯や皿洗いなどを自分でやってみて、今まで自分がどれほどお母さんに支えられていたか、その大きさを強く感じています…」

 入寮し親元を離れる事で、彼の生活は大きく変わったと思うのですが、その変化の中で彼は当たり前の中で見えなくなっていたものを確かに見出していたのでした。そんな寮生たちの表情や言葉に触れながら、実は私も30年以上前にこの敬和ののぞみ寮で生活した事、同じように親元を離れる事で大切な事に気付かされた1人である事を実感しています。

 先日も寮の礼拝に出席すると、その日に歌った讃美歌がすごく心に響きした。先ほどみんなで歌った484番「主われを愛す」でしたが、その讃美歌を歌いながら、私の心の中に幼少時の記憶が鮮明に蘇ってきたのでした。

 私が幼稚園の頃のことです。ある日曜日に私は風邪か何かで熱を出してしまいました。いつもの日曜日であれば、家族みんなで教会に行くのですが、具合の悪い私と母だけが家に残って留守番をすることになりました。私は苦い風邪薬を飲まされてリビングで横になっていました。母は、溜まった洗濯物を片付けつつ一曲の讃美歌を口ずさんでいました。

 

「主われを愛す 主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ…」

 

薬が効いてきたのか、母の歌声を聞きながら私はウトウトしていましたが、ふと母の方を見た私は、はっとなって目が覚めました。母は洗濯物を畳みながら、泣いていたのです。驚いた私は「お母さん、どうしたん? なんで泣いてるの…?」と尋ねました。母は、息子に涙を見られた事に対して恥ずかしそうに涙を拭きながら「何でもないよ…。」と返事をしました。幼稚園児の私は、その時なぜ母が泣いていたのか理解できませんでした。しかし、恐らく自分が病気になったから、母が教会に行けなくなったから泣いているのだと思った私は「お母さん、ごめんね。」と謝りました。すると母はこんな風に返事をしてくれました。「ううん、光顕は何にも悪くないんよ。それよりなあ、光顕、神様は、苦しい人や悲しい人の叫びをちゃんと聞いてくださる方やからね、今日みたいに教会に行けなくても、こうやって讃美歌を歌えば、私たち一人ひとりの歌声を神様はちゃんと聴いて下さるんよ…。」

 私は5人兄弟の末っ子なのですが、病弱だった父を支えながら、5人の子どもを育てる事がどれだけ大変だったか、今であればその苦しさを感じることができます。そしてそのような困難を抱えながら私を支えてくれた母に深い感謝を覚えると共に、その母も先ほど歌った讃美歌や見えない神との繋がりによって支えられていたのだな…と思わされます。

 今日、この礼拝で皆さんに考えてもらいたい事、それは「自分を支えてくれる力」です。私たちは見える・見えないにかかわらず、様々な力によって支えられ、今を生きています。それを当たり前にしないで、少し心を向けて自覚する事で、それぞれの歩みをより確かなものにする事ができるのではないか…?と思うのです。

 そして、今日のお話の最後にもう一つ、私たちが集うこの敬和学園を支えている大切な存在を紹介したいと思います。敬和は創立57年目を迎えていますが、その設立にあたって大きな力を発揮した存在があります。それが新潟地区に点在するキリスト教会です。古くは北越学館や新潟女学校といったキリスト教主義の学校がありましたが、それらは時代の流れや変遷によって廃校を余儀なくされていました。そんな中で、「この新潟にキリスト教教育を行う学校が必要だ」と願い続けた教会や信徒の方々、その熱い祈りによってこの敬和が誕生したのです。つまり、私たちの土台には、創立から半世紀以上が経過した今も新潟地区の教会の祈りが連綿と流れているのです。

 今日読んでもらった聖書箇所には、今から約2000年前に活動した弟子たちが、深い愛を持って宣教した事が示されており、その愛や願い・祈りは時代や国が変化しても、変わらず存在し続け、今日の教会を支え続けています。私はお話の最後に皆さんにお勧めしたい事があります。日曜日、ぜひ教会に行ってみて下さい。別にクリスチャンでなくても、お家が無宗教でも構いません。教会の入口で「敬和から来ました」と告げれば、どこの教会も大歓迎してくれるはずです(中にはお昼を無料で食べさせてくれたりバス券などの交通費を支給してくれる所も…)。それくらいこの敬和と新潟地区教会は深い繋がりを持っており、今この時も敬和を支え続けてくれています。それを体感する事によって、この敬和での生活をより確かなものにできるのではないでしょうか?