毎日の礼拝

毎日のお話

2024/04/18

浅妻 和章(教頭)

【聖書:創世記 1章 31節】

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」

 

 

 春ですね。春になると、なぜか心が弾むのは私だけでしょうか。なぜそのような気持ちや感覚になるのか考えてみました。厳しい冬を耐え忍んで巡ってくる季節だからでしょうか。特にここ新潟は冬には雪が降り、その時期は気分も滅入ってしまいます。昨シーズンの冬は暖冬であったわけですが、それでも寒い時は例年並みに寒かったですし、雪も一気に降ることもありました。雪かきも大変でした。そのような冬だからこそ、何とか堪え、来るべき春を待ち望む、そうして春を迎えたときに心が躍るという感じでしょうか。「そうだよなあ」と何となく納得しそうになりますが、「ちょっと待て」と自分の心の中で叫ぶ声が聞こえてきそうです。実は個人的に冬と言う季節、そんなに嫌いではないばかりか結構好きだったりします。確かに寒い時は少し嫌な気持ちになります。それでも山に雪が積もるようになると少し落ち着かなくなってきます。そして山に出かけます。定期的に山に行き、雪と戯れます。山に行って晴れていれば最高ですが、別に吹雪いていても十分に楽しいと感じます。このように、個人的には冬は好きな方ですし、冬を耐え忍ぶという意識はあまりありません。ですから春を心待ちにしているという感覚もあまりありません。いやむしろ、「冬が終わってしまうのか…」と少し寂しささえ感じてしまいます。そのような自分でも、春が来るとなぜか心が弾みます。これっていったいなぜなのでしょうか。

 敬和の敷地内にはサクラが咲いています。さすがに満開は過ぎましたが、まだまだきれいに咲いています。進入路を見てみました。チューリップやパンジー、スイセンが花壇いっぱいに咲き誇っています。今の敬和の敷地内は実に華やかです。華やかだからか、今までは見えづらかった草花のいのちが、今は鮮やかに見えます。新しいいのちに、そしていのちの輝きに出会ったようです。「ああこれなんだ、心が弾むのは。」新しいいのちとその輝きに出会う感覚、そして、自分のいのちも新たにされる感覚、これこそ心が弾む理由なんだということに気づきました。

 57回生が敬和に入学してきました。57回生となった一人ひとりが、それぞれ異なる場所でいのちが育まれ、ここ敬和という場所に集められました。今まで見えづらかった57回生それぞれのいのちが、今敬和の中で鮮やかに見えます。新しいいのちに出会い、心躍る気持ちが倍増します。そのような新1年生、57回生の姿を見ることで、敬和の56,55回生の先輩たちや教職員も心新たにされる感覚を味わいます。春は新しいいのちとの、また新たにされたいのちとの出会いの季節です。心躍るこの季節、いい季節です。毎年訪れる春、新しいいのちとその輝き、いのちの再生との出会いを体験できる場所に身を置ける喜びをかみしめたいと思います。

 

 57回生として入学されたみなさん、敬和へようこそ。みなさん自身のいのちと出会うことで、私たち自身のいのちが新たにされました。ありがとうございます。これからの敬和生活が、神様によって守られ、導かれますように。上級生である56,55回生のみなさん、この春の季節の中、みなさんのいのちの輝きを感じます。今年度の歩み、敬和生活が、恵みに満ちたものとなりますように。

 

 今日の聖書箇所「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」は、天地創造物語の一部分です。神様は万物を創造された方であり、自然界をはじめ四季や私たち一人ひとりも創造されました。そして一番大切なのは、神様が創造されたものを見て、「良し」とされたということです。私たちは神様から「良し」とされているのです。もちろん欠けの多い、ダメな部分もいっぱいある私たちですが、「それでも大丈夫、いいよ、O.K.」と言われてるのです。ここをベースとしながら、自分のいのちをさらに輝かせていければと願います。私自身も、生徒のみなさんのような若さはありませんが、私なりのいのちを輝かれられるように、歩んでいきたいと思います。「輝け! それぞれのいのち」