毎日の礼拝

毎日のお話

2023/12/20

久保田 愛策(日本基督教団 十日町教会牧師)

【聖書: マタイによる福音書 1章 18-22節】

 

イエスキリストの父親、ヨセフという人がどのような人であったのか、クリスマスが来るたびに思いめぐらします。ヨセフはイエス様の誕生物語に出てくる登場人物の中でも、もっとも損で、もっとも顧みられない人物の一人だと思うのです。ヨセフはイエス様の誕生物語とイエス様の少年時代の神殿での一コマだけに登場し、そのあとは一度も登場することなく、早々と聖書の舞台から消え去ってしまいます。であるがゆえにヨセフにまつわる様々な伝説もあるのですが、カトリック教会では聖母マリア様とあがめられるマリアと比べると、ヨセフはあまりにも対照的です。

ヨセフの姿を描いた聖画を見たことがあります。馬小屋でイエス様が生まれた場面なのですが、ろうそくを片手に立っている彼の姿が何とも頼りないのです。近年は、出産に立ち会うお父さんも多いと言われますが、世の父親の多くはヨセフのように頼りない様子でそばに突っ立っているだけだと思うのですが、同時にそれゆえにヨセフにはどこか親しみを感じたりするのです。

 

ただ、この時ヨセフには、イエスキリストの誕生まで心の中でずっと葛藤があったのではないかと想像します。この時ヨセフはマリアと婚約していました。その婚約期間中に、天使からのお告げで婚約者であるマリアが身ごもっていることを知りました。遺伝子レベルで考えると自分の子どもではありません。婚約者が誰の子どもかわからないけれども身ごもったのです。旧約聖書の申命記22:23‐24にはこのような記述があります。「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さなければならない。」。この教えをそのまま適用すると、マリアは死罪になる可能性がありました。聖霊によって身ごもりましたと言っても誰も信じないのは2千年前も今も同じです。

 

マタイによる福音書によりますと、マリアが聖霊によって身ごもっていることが明らかになった時、ヨセフは正しい人であったのでマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した、とあります。ヨセフは正しい人であったがゆえに、表ざたにしようとしなかったと読めるのですが、私はどうもこの19節の訳は違うのではないかと思っているのです。私の久保田訳は19節はこうなります。

「しかし彼女の夫ヨセフは律法に忠実な人であったにもかかわらず、彼女のことを表ざたにすることを望まず、こっそりと別れようと思った。」。ヨセフはまじめな人で、今まで法律に触れるようなことは一度もせず、神様から与えられた掟に従順に生きてきました。そのヨセフが人生最大のピンチの時に、思い切った決断をしたのです。ヨセフは正しくあることと優しさを天秤にかけたのです。律法に忠実にあろうとしたらマリアのことを表に出して、マリアを石打の刑にしなければなりません。しかしヨセフはここで優しさをとったのです。傷ついたけれども、一度は婚約した人の命を守ろうと決心したのです。正しい人ヨセフは実は人の憂いのわかる優しい人だったのです。

 

その時、夢で天使が現れてこう告げます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。この後、ヨセフは天使が命じたようにマリアを妻として迎え入れたと聖書にはさらっと書いてあります。しかし、その後、住民登録のため当時住んでいたであろうナザレからベツレヘムまで100キロ近い距離を、身重のマリアと共に旅をして、ベツレヘムの馬小屋でマリアの出産に立ち会うことになるヨセフの心の変遷はどのようなものであったのだろうかと思うのです。これはヨセフだけでなく、身ごもった当事者であるマリアも同じかもしれませんが、疑いと、迷いと、不安と、恐れが絶えずあったと思うのです。これから何が起こるのだろうか、相手を、そして神様をどこまで信じていいのだろうか、そんな疑いや迷いや不安、恐れのただなかに救い主イエスキリストはお生まれになったのです。それは疑い迷い、不安や恐れ、そして悲しみに支配されやすい私たちにそっと寄り添うために救い主イエスキリストはお生まれになったという重要なメッセージだと私には思えてならないのです。

 

クリスマスのこの時期は、各地のキリスト教主義の保育園・幼稚園・認定こども園ではページェント(降誕劇)の発表を行います。そしてこの時期になると私は前任地の鹿島幼稚園で起こったある出来事を思い出します。

ある日、練習前に羊飼い役の男の子が泣いてすねていました。衣装がなかったのです。「今日は練習しない」と泣いている子どものそばには先生と、その子の友だちがいました。何とかなだめて、励まして練習に行こうとしますが、折れた気持ちはなかなか立ち直りません。私はしばらくその様子をそっと見ていたのですが、泣いている子の様子を見ていた友だちが何とその場で羊飼いの衣装を脱ぎ始めました。衣装を貸してあげるのかと思ったら、泣いている友だちに囁いたのです。「ぼくも今日は衣装なしにするよ」。衣装がなくて泣いている友だちの切なく恥ずかしい思い、独りぼっちの思いに彼なりに寄り添ったのです。「君を一人ぼっちにはさせない」という思いです。寄り添うという生き方が自然とできる彼のその温かさに、私は思わず涙がこぼれそうになったのです。と同時に、こんな友だちがそばいたら、この世の中で苦労しても、悲しみに出会っても、再び立ち上がり歩み出す力が湧いてくるのだろうなと思ったものです。そしてそのためには、自分が寄り添ってもらうことばかり考えるのではなく、自分自身が人にそっと寄り添う存在にならなければならないと教えられたのでした。

 

強く、正しく、立派であることやみんなから羨望の眼差しを受けることなどに無理な色目を使わず、人の悲しみや痛みに、優しく、そっと寄り添い続ける尊さをこの2023年のクリスマスにかみしめたいと思います。この姿勢があれば、生き辛さが覆うこの闇路にあっても希望の光を見つけ、平和を作り出す者としてきっと生きていける、私はそう信じています。