自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/12/21
【聖書:マタイによる福音書 6章 9-10節】
だから、こう祈りなさい。
天におられるわたしたちの父よ、
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上においても。
今日終業日で、いよいよ明日からは冬休みです。
8月から今日までを振り返るとき、こうして無事、終業を迎えることができたこと嬉しく思います。
今年の夏は猛暑でした。
9月、新学期が始まっても暑さはおさまらず、毎朝の礼拝も最初の1週間は冷房のきく教室での放送礼拝でした。
12月となり雪の降る今から思えば、あの頃の暑さは嘘のようです。
修養会も各学年、無事に行われました。
1年生は、雨のなかのキャンプという過酷なものとなりましたが、学年教師の予想を上回る、生徒の活躍によりやり遂げることができました。
2学年は長野県の共働学舎における労作中心のプログラムでした。
雨に降られて大変だったと思います。
1週間前に2学年の先生から聞いたことですが、修養会が終わってから学年の雰囲気が大きく変わった、と言われていました。
敬和生らしくなって来た、という意味だと思います。
3年生は宮城県の被災地に行きました。
現場に実際行ってみることの大切さをあらためて教えられました。
卒業してからも、きっとここでの経験と学びは生かされると思います。
10月には生徒会選挙があり、2年生への世代交代が行われました。
生徒会、部活動でも55回生が学校の中心になりました。
3年生はそれぞれの卒業後の進路の準備に本格的に取り組んでいることと思います。
一人ひとりに、ふさわしい進路がそなえられることを願っています。
11月7日(火)に、モス・はつみ先生の記念会が行われました。
皆さんにとっては、突然の会で、よく分からなかったかもしれません。
しかし、人にそれぞれ歴史があるように、学校にも歴史があります。
そして歴史とはそれを担う人がいて、つくられるものです。
敬和のために大きな働きをしてくださった先生のために、あのような会を開くことができたことは、今を生き、これからも歩み続ける学園にとって大切なことだと思います。
先週、アメリカからクリスマスカードが届きました。
はつみ先生のお連れ合いのジョン・モス先生からです。
モス先生は現在97歳ですが、お元気です。
先生は記念会の様子を録画したDVDを観られました。
クリスマスカードには、Thank you, thank you と何度も書かれていました。
声楽部の歌声がたいへん美しかった、そのことを生徒の皆さんに伝えて欲しい、ともありました。
この場を借りて報告いたします。
11月中旬にはインフルエンザが猛威をふるい、学年閉鎖の措置がとられました。
幸い収束し、去年はコロナで中止になった讃美歌発表会も無事に行うことができました。
こうして振り返ると、さまざまなことがあった3か月間でした。
世界に目を向けると、イスラエルのガザにおける戦争に胸が痛みます。
キリスト教学校である敬和学園にとって、他人事とは思えません。
キリスト教はユダヤ教を源流とし、イスラエルはユダヤ人が建国した国です。
1日も早い停戦を望みます。
この3か月間がどのようものであったか、それは、一人ひとりにとって違うでしょう。
充実した3か月をすごせた人もいるでしょう。それは素晴らしいことです。
それに対して、自分は何もできなかった、と思っている人もいると思います。
このコロナの3年間が教えてくれたことは日常の大切さ、ということです。
コロナによって日常が失われて、その大切さに気付かされたのです。
何もできなった、と思う人も、人知れず、毎日、小さな闘いを闘ってきたはずです。
普通に生活するための闘いです。普通の生活とは、私たちの日常のことです。
それは何もしないで得られるものではありません。
だから、皆さんが普通に学校生活を送っているだけだとしても、それ自身、簡単なようでいて、とても価値あることです。
さて、今日の聖書は『主の祈り』の一節です。
聖書の授業で習ったと思います。
弟子たちがイエスさまに、どう祈ったらよいか教えてください、と尋ねたとき、このように祈りなさい、と教えてくれた祈りです。
今日の箇所は2番目の祈り、「御国が来ますように」という祈りです。
御国とは神様が治める国のことです。
このような祈りが祈られなければならなかった背景には、この世を神様が治めているとは思えない状況があったからです。
それは今も昔も変わりません。
この世界には、納得いかないこと、理不尽なことが多すぎるからです。
なぜこんなことが起こるのか、神様は本当にいるのだろうか、と思うようなことです。
自然災害や戦争では、罪のない人、とくに幼い子どもたちが犠牲になります。
ニュースでは毎日のように悲惨な事件や事故が報道されています。
その状況はイエスの時代も同じでした。
イエスの時代の人々は悪霊(あくれい)の働きをリアルに感じ、その存在を信じていました。
悪霊とは悪魔のことです。
私は、悪魔を見たことはありませんが、悪霊を信じた当時の人たちの気持ちも分かる気がします。
この世の闇は深く、私たちを縛る闇の力、悪の力、死の力は到底人間の手に負えるものではありません。
悪霊を安易に昔の人の迷信と考え、切り捨てていけないと思います。
彼らは、悪の力を私たち以上にリアルに感じていたのかもしれません。
聖書の別の箇所に、イエスが悪霊を追い出すと、それまで口の聞けなかった人が、ものを言い始めた、という話があります。
そのときイエスは次のように言います。
「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11.20)と。
神の国とは、イエスによる悪霊に対する戦いとその勝利において、私たちのところに来るものとされます。
ですから「御国が来ますように」という祈りには、イエスが私たちのもとに来て、悪霊の力に打ち勝ち、神様が、すべてにとってすべてとなりますように、という願いがこめられているのです。
それは、この世の不条理や悪の力がどんなに強くても、決してあきらめないこと、
どうせこの世界から戦争や凶悪事件はなくならない、この世は、善人が損をし、悪人や要領のいい人が得するようにできている、などと割り切ってはいけない、ということです。
むしろ、どんな時にも悪ではなく善なるものを、闇ではなく光と真理を求め続けるようにと、イエス様は私たちを励ましてくださっているのです。
なぜなら神様は、イエス様をこの世に誕生させてくださったほどに、深くわたし達一人ひとりを愛してくださる方だからです。
クリスマスを迎える今、わたしたちも神様のこの豊かな恵みに支えられて、希望をもって共に歩む者でありたいと願います。
それでは楽しい冬休みとよい年をお迎えください。
新学期、元気な皆さんと会えることを楽しみにしています。