毎日の礼拝

毎日のお話

2023/12/13

澤野 恩(保健体育科)

【聖書:コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章 18節】

 

 普通一般に言われる希望は、未来におけるいろいろな出来事や状態を意味するのではないかと思います。目に見える様々なことで想定し、作り上げ、そこに都合の良い、自分の欲求がみたされた状態を描き求めていくことが「希望」です。それを聖書では「見えるもの」と言いあらわしているのではないかと思います。たしかにこのような見えるものに目を注ぐ、心の眼を一途にそれに向け励む、ということも大切かもしれません。しかしその通りに上手くいくということにはならないのです。何度も挫折するのです。挫折しさらに次の希望を与えられていくというのが、人生を生き抜く手段であると言えるかもしれません。聖書の中の希望とは、「未来への信頼」である。自分の欲求を満たすがための希望ではなく、未来への信頼の希望です。その信頼があるからこそ、目に見える、目の前の希望が達成されなく挫折をしても、何度も人は立ち上がれるのだと私は信じています。しかしながら、数千年前、神様からの約束の地を求めて希望に満ちたユダヤの人々が、数千年の時を経て国ができたのに、そこで現在行われている、御心とはかけ離れた出来事にはなんとも悲しい思いにさせられます。それは、未来への信頼である希望を求めるのではなく、自分たちの思い描いた希望を求める、目に見える希望を求め続けているからだと思えてなりません。