自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/11/27
【聖書:ヨハネによる福音書 3章 8節】
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。
今日の聖書は、イエスがニコデモというファリサイ派の人に語った言葉として伝えられているものです。
あるときイエスが言います。
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
それを聞いたニコデモは質問します。
「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親のおなかに入って、生まれるとでもいうのでしょうか。」
イエスは答えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
謎のような言葉です。
これは、どういう意味でしょうか。
ここで「新たに生まれる、」ということを、ニコデモは肉体の次元で考えています。
だから、もう一度、生まれるためにはお母さんのおなかに戻らなければいけないのですか、とイエスに質問したのです。
それに対してイエスは、自分の言う「新たに生まれる」とは、肉体のレベルのことではなく、霊にかかわることだ、と答えます。
霊とは、幽霊の霊という字を書きますが、聖書では神様の働きを意味する言葉です。
ギリシア語で霊を、プネウマと言いますが、それは風とか命を意味します。
風を想像してみてください。
風そのものは目に見えません。
しかし、風の働きなら見ることができます。
風に木が揺れている、落ち葉が舞っている。それによって風が吹いているのが分かります。
見えなくても風は確かに吹いています。
神様の働きも同じです。
私は、敬和の生活のなかで、風を感じることがしばしばあります。
それは、生徒の皆さんが生き生きと活動しているときです。
最近、特に大きな風を感じたことがありました。
秋のオープンスクール(11月11日)です。
全国から、中学生150名が参加してくれました。
朝から天気が心配されましたが、幸い、晴れ間ものぞき、外の見学もできました。
この日、入試労作の生徒の活躍に、私は大きな風を感じました。
彼らは学園中に風を吹かせていたのです。
こんなに一生懸命、中学生を迎えるために働いてくれる生徒がいるだろうか。
秋の光にみんな輝いていました。
敬和生は本当にすごい。
敬和の教育は間違っていない。そう私は確信しました。
校風という言葉を聞いたことがあると思います。
学校の風、と書きます。
敬和の校風。それは目には見えませんが、確かに吹いています。
そして、敬和の校風をつくるのは皆さん一人ひとりです。
高校生の年代を思春期と呼びますが、それを二度目の誕生の時、と言った人がいます。
フランスの思想家ルソーです。ルソーは言います。
「人間は二度、誕生する。初めの誕生は存在するために、二度目の誕生は生きるために。」
今日の聖書と似ています。
初めの誕生とは、言うまでもなく、母親が子供を出産する時です。
二度目の誕生は、生きるために。
敬和学園では、この二度目の誕生のことを「自分探し」と呼びます。
先週、火曜日の放課後、敬和学園大学に進学する3年生を対象にした「敬大講座」がありました。
そのなかで、一緒に50周年記念誌に収められた、30年前に書かれた当時の校長、榎本榮次先生の文章を読みました。
次のような内容です。
先生は、敬和の教職員の研修会で、教育方針について話しました。
話の後、質問を受けました。
「話はとてもよかったです。でも校長はどのような生徒を育てたいか、校長の生徒像を聞かせてください。」
「校長の話を聞いても生徒像が見えてきません。」
校長は少し考えた後、生徒像という言葉をめぐって、「敬和学園は期待される生徒像をもたない学校でありたい。」と答えました。
いささか挑戦的な答えですが、教育とは、自分の理想とする生徒を育てることではなく、生徒自身がもっているものを引き出し、その成長をたすけることだ、と考えたといいます。
多くの学校は目指すべき生徒像を掲(かか)げます。
おそらく一番多いのは「文武両道」=勉強も部活動も頑張れる生徒、困難に負けず、将来、社会に貢献できる生徒です。
そして最近では、コミュニケーション能力にすぐれた生徒などもあげられます。
確かにこれらの目標を掲げるのは大事なことです。
しかし、現実にどうなのでしょうか。
一人ひとりには様々な個性が与えられ、育った環境も異なります。
掲げられた生徒像は、ただの看板で終わっていないでしょうか。
しかも、それらは社会状況によって変化します。
極端な例かもしれませんが、日本では、80年前の戦争のとき、学校は軍国主義一色に染め上げられました。
お国のために命をささげる若者を育てることが教育の目標になったのです。
それが、当時の求められる生徒像でした。
だから、敬和では生徒像をもたない代わりに、生徒がもっている良いものを引き出し、生徒が自分自身になることを援助する学校にしよう、榎本校長はそう考えました。
それが自分探しの学校=敬和学園の教育です。
生徒一人ひとりが、新たに生まれ、自分自身になること。
風はどこから来て、どこへ行くかわかりません。
しかし、その音は聞こえます。
今も確かに吹いています。
私たちも、今日の一日、その恵みをおぼえて、ともに自分探しを続ける者でありたいと願います。
今朝の敬和