自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/11/20
【聖書:ヨハネによる福音書 15章 12節】
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
先週の礼拝では、イスラエルのガザ自治区における戦争についてお話ししました。
ところで、パレスチナ人の宗教はイスラム教、イスラエルはユダヤ教、そしてアメリカやヨーロッパはキリスト教の国です。
この3つの宗教は歴史的に深い関係があります。
旧約聖書は古代ユダヤ教が生み出した聖典です。
キリスト教はユダヤ教を源流とし、新約聖書とならんで旧約聖書を聖典としています。
イスラム教の聖典はコーランですが、これも旧約聖書の影響を強く受けています。
また、イスラエルのエルサレムはこの3つの宗教の重要な聖地になっていて、今も多くの人が巡礼に訪れます。
昔からこの地域には3つの宗教が複雑に入り組み、それらが共存してきました。
今回の戦争は宗教的対立ではなく、土地をめぐる争いですが、今日は宗教について考えてみたいと思います。
世界にはさまざまな宗教があります。
どの宗教が一番、優れている、ということはありません。
どの宗教にも、それぞれ良い面もあれば悪い面もあります。
私は、宗教の悪い面として、自分たちの宗教こそが最も優れていると言って、他の宗教を攻撃し、否定することが挙げられると思います。
自分たちの宗教だけが本物で他は偽物(にせもの)である、自分たちの宗教にだけ真理を授けられている、そのように強く信じ、他を否定することです。
宗教のそのような面が、政治的対立や民族対立に利用されると、問題は深刻化し、理性による歯止めを失い、相手への攻撃が容赦ないものになる恐れがあります。
日本人の多くは宗教をあまり意識することなく、いろいろな宗教をそれぞれの場に応じて使い分けて生活していますから、宗教的対立など無関係と思えるかもしれません。
しかし、宗教の影響を受けていない分、日本人の生活には、何か中心となるものがない、少なくとも、それがよく見えない状態にあることは否定できません。
このような状況で心配なのは、人々が、一見、魅力的な考え方の影響を簡単に受け、雰囲気に流され、自分を見失ってしまうことです。
特に社会が行き詰まり、不安定になると、自分の狭い考えにこだわり、違う考えの人を否定したり、憎んだりする状況が生まれやすくなります。
日本には宗教的対立こそありませんが、形を変えてそれに似たような状況が生まれ、社会全体でお互いの間に溝ができて、分断と対立の広がるおそれがあります。
今、その傾向が、日本国内だけでなく、世界的に広がりつつあるように思えます。
今日は18世紀のドイツで活躍したレッシングという劇作家の書いた、「賢者ナータン」(岩波文庫)という戯曲に収められている、「3つの指輪の物語」というお話を紹介したいと思います。
ある人が、様々な色を見せる美しい指輪を譲り受けます。
この指輪は、秘密の力をそなえており、この力を信じてこれを嵌(は)めていると、神と人とに愛される者になる、と言われました。
この指輪は家宝として、代々、子どもたちのうちの最愛の者に受け継がれました。
あるとき、この指輪は3人の子どもをもつ父親のものになりました。
父親は年をとり、この指輪を3人のうちの一人に譲らなければなりませんでしたが、父親は3人を同じように深く愛していたため、どうしてもそのうちの一人を選ぶことができませんでした。
父親は人のよい弱さもあって、子どもたち3人、それぞれに指輪を譲る約束をしてしまいます。
やがて臨終が近づいたとき、父親は困ってしまいました。
指輪は一つしかなかったので、このままでは一人にしか譲ることができないからです。
それで密かに指輪作りのもとに人をやり、現物と全く同じ指輪を2個、作らせました。
出来栄えは完璧で、父親でさえ、元の指輪がどれなのか分からないほどでした。
父親は喜び、子どもたちを別々に呼び寄せ、一人ひとりを祝福して指輪を与え、やがて亡くなります。
3人の子どもたちは、父の死後、自分の指輪こそが本物であると互いに主張します。
しかしあまりに完璧に作られていたので、誰も自分のものだけが本物であると証明することができませんでした。
そこで3人は裁判に訴えます。
3人は裁判官の前で、「自分こそが父親から指輪を譲り受けた、父親が自分に嘘を言う訳がない」、とそれぞれが訴え、互いの詐欺行為を激しくののしりました。
裁判官は彼らに次のように申し渡します。「どの指輪が本物の指輪であるかを証明する方法が一つだけある。
この指輪を嵌めている者は、神と人から愛される者になるという。
では3人のなかで、誰が他の二人から一番愛されているか、その者の指輪こそが本物である。」
3人が黙っていると、裁判官は続けます。
「そうなるとお前たちの指輪はどれも本物ではないことになる。
本物の指輪はもう紛失してしまったのだろう。
その埋め合わせに父親は3つの偽物を作らせたに違いない。」更に続けます。
「私は判決の代わりに忠告を与えよう。めいめい父親から指輪を授かったのなら、自分の指輪こそ本物だと信ずるがよい。
父親はお前たち3人を分け隔てなく愛していたに違いない。
さあ、その父親の愛を受け継ぎ、人と神から愛される者となるようにめいめい励むがよい。
そして百年後、千年後、そのときこそ、お前たちの子孫がその指輪の力が本物であることを証明するであろう。」
このようなお話です。
この物語は、ユダヤ人ナータンがイスラムの王サラディンに、「イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の3つの宗教のうちどれがもっとも優れているか、」と質問されたときに語ったものです。
3つの指輪とは、この3つの宗教のたとえです。
ナータンは、どの宗教が優れているか、どれが本物かが問題なのではなく、その中でどのように生きるか、それこそが問題であると答えます。
たとえその指輪が偽物であっても、本物だと信じて、人と神に愛される生き方に励むとき、それは本物と同じ輝きを示すようになると教えます。
神様を信じて、愛の業(わざ)に生きているかどうかが問われているのです。
それが指輪、つまりそれぞれの宗教が、本物であることを証明する唯一の方法である、と告げます。
今日の聖書は、イエスが弟子たちに最後に語った言葉として伝えられているものです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。」
私たちも、分裂と対立が深まりつつある今日の社会状況、国際状況の中にあって、互いに愛と尊敬をもって歩む者でありたいと願います。
今朝の敬和