自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/10/30
【聖書:詩編 22編 2節】
わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きの言葉も聞いてくださらないのか。
多くの生物の中でも、ものごとに対して「なぜ」と問いかけるのは人間だけです。
特に子供はいろいろなことを不思議に思い、その理由を知ろうとします。
なぜ空は青いのだろう、
なぜ花は咲くのだろう。
なぜ虹は七色なのだろう。
なぜキリンの首は長いのだろう、
なぜ人間だけ言葉を話せるのだろう、
赤ちゃんはどこから生まれてくるのだろう、
なぜ人間は年をとるのだろう
人は死んだらどうなるのだろう、
誰もが子供の頃、様々なことを疑問に思います。
親や大人の人に聞いて、解決できる問いもあれば、大人も答えられないものもあります。
高校生になり、様々ことを学んだ皆さんであれば、子供の頃は分からなかったことで、今は分かった、と思えることもたくさんあると思います。
それは学ぶこと、学習することの喜びの一つです。
しかし、いまだに分からない疑問もたくさんあるはずです。
なぜならこの世界は、不思議なことに満ち溢れているからです。
子供の頃は、素直に疑問に思うことを人にきいていたのが、大人になるにつれて、いつの間にか、きくことをやめてしまいます。
いつまでも「なぜ」ときくことは、子供じみた、恥ずかしいことのように感じられてしまうからです。
しかし、今、私たちが学ぶ様々な知識も、「なぜ」という問いを大人になっても持ち続けた人たちが、それについて考え続けた結果、明らかになったものです。
人間には、「なぜ」と問い、それについて考える力があります。
「なぜ」と問うことをやめたとき、人間の成長は止まります。
そして社会にも活気がなくなります。
一方で、社会のあり方に対して、「なぜ」と問いかけられることを嫌う政治家や権力者がいます。
自分たちの立場や地位が脅かされるのではないか、と不安にかられるからです。
たとえば、「なぜ、私たちの社会はこんなにも経済格差が広がってしまったのか、」
「なぜ、世界の各地で戦争が起き続けるのか、」
「なぜ、地球の温暖化がこんなにも進んでしまったのか、」
「なぜ、社会から差別がなくならないのか、」などの疑問です。
しかし、より良い社会をつくって行くためには、「なぜ」と問い続け、社会を正して行くことが必要です。
そうしなければ社会は、悪くなる一方で、一部の権力者の思うがままになってしまうからです。
だから、敬和生の皆さんには、「なぜ」と問う勇気を持ち続けて欲しいと思います。
ところで、「なぜ」という問いに対して、答えが得られないものもたくさんあります。
私は3年生の修養会に同行し、東日本大震災の被災地を訪れました。
震災では死者・行方不明者が2万人、近く出ました。その9割は津波によるものです。
亡くなれた方の中には幼い子供、若い中学生や高校生も大勢いました。
そのときの状況を語り部の方からお聞きしましたが、本当に人の生死を分けたのは紙一重の差だった、ということでした。
キリスト教では、「神様は、一人ひとりを愛しておられる、」と教えます。
しかし、本当にそうなのだろうか、人生にはあまりにも理不尽なことが実際、起きているではないか。
そのような疑問が心をよぎります。
今日は先日、読んだある本に載っていたエピソードを紹介します。
ある日本人がドイツに留学していたときのことです。
公園に3歳で亡くなった女の子のお墓がありました。
墓石にはたった一言、「Warum(なぜ)」と記されていました。
Warumは、英語のWhy? (なぜ、)という意味です。
たぶん、ご両親によって刻まれたのでしょう。
なぜ、娘は3歳で亡くならなければならなかったのか、
娘の生まれてきた意味は何であったのか。
ご両親は耐えがたい苦しみと悲しみのなかで、そのような問いを、問い続けたのだと思います。
女の子の墓石に刻まれた「Warum(なぜ)」という言葉は、人間には答えることのできない問いを、空に向かって発しているようにも思えます。
神様は本当に存在しないのでしょうか。
もし、神様が存在しなければ、このような問いかけには意味がありません。すべては、むなしいばかりです。
なぜなら、それは誰も答えてくれない、むなしい問いになってしまうからです。
しかし、人間を愛してくださる神が存在するならば、私たちは、少なくとも神様に「なぜ」と問いかけることができるのです。
私は、ご両親の問いかけに、神様はきっと答えてくださっていると思います。
だから、私たちはどんなにつらい出来事に見舞われても、「なぜ」と問い続けることには意味があると思います。
その問いに耳を傾けてくださる方が存在するからです。
12年前の被災地でも、多くの方々が深い悲しみを経験しました。
12年前のことだけのことではありません。
今も、私たちの世界では、毎日のように事故や災害、戦争など理不尽な出来事が起きています。
そして、深い悲しみのなかで「なぜ、あのとき・・・」と問い続けている人が大勢います。
その問いに対して、きっと神様は一人ひとりに、それぞれ仕方で答えてくださっている、と私は信じます。
本人にだけ分かる形で、神様は、きっと答えを示してくださっていると思います。
聖書に現れる多くの人々も、この世界の耐えがたい苦しみのなかで、神様に「なぜ」と問いかけました。
彼らは、そうすることで、絶望を超えたところにある、人生の意味や意義を発見して行きます。
そして新しい一歩を踏み出す勇気と希望を与えられてきたのです。
今日の聖書です。
詩人は神に問いかけます。
「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。」
この言葉は、イエスが十字架にかかり亡くなる時、十字架上で痛みと苦しみのなかで発した言葉として新約聖書に記録されています。
最後までイエスは、「なぜ」と神様に問いつづけました。
私たちもこれからの人生、大きな苦難に襲われるかもしれません。
しかし、どのような時も、絶望して心を閉ざしてしまうのではなく、私たちを愛してくださる神様に信頼し、「なぜ」と問い続ける者でありたいと願います。
神様は必ず、その問いかけに答えてくださる方だからです。