自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/10/03
【聖書:マタイによる福音書 5章 15~16節】
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いをみて、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
先週は修養会お疲れ様でした。
1年生は海辺の森でのキャンプとウォーキング、2年生は長野県の共同学舎で労作中心の修養会でした。
3年生は東日本大震災の被災地を訪れました。
今年は生憎の天候により、各学年、厳しい修養会になりました。
しかし、そのような条件の中でも、各学年、実行委員を中心に精一杯プログラムを実行することができたことを嬉しく思います。
修養会は一つの旅にたとえることができます。
いつもの学校生活とは全く違う経験をして、人間的に成長するための旅です。
成長するためには、精神的、肉体的にある程度の負荷、困難が課されることも必要です。
みんなで協力して、その困難に立ち向かい、それを乗り越えることによって、さまざまなこと学び、それが成長につながるからです。
各学年、それぞれ内容は全く異なりますが、何かをやり切った、という思いがあるのではないでしょうか。
しかし、この旅にはもう一つの目的があります。
それは、私たちが当たり前に生きている日常の再発見です。
皆さんは、修養会が終わり、家や寮に帰ったとき、ほっとしませんでしたか。
身近にいる家族や寮の友達とすごす日常に安らぎを感じたはずです。
日常とは、命のいとなみです。
家族や友人とともに当たり前に生きているこの命を、かけがえのないものとして再発見すること、それがこの旅のもう一つの目的です。
そして、何気なくすごしている毎日の学校生活という日常。
その意味を再発見することも修養会の目的です。
この時期は、ちょうど一年の折り返しです。
皆さんも、新しい気持ちでこれから、一年の後半に臨んで欲しいと思います。
さて、私は3年生の修養会に同行しました。
宮城県の気仙沼と南三陸を訪れました。
どちらも、津波で壊滅的な被害を受け、大勢の方が亡くなった場所です。
往復バスでの移動は大変でしたが、現場に行ってみることの大切さをあらためて教えられました。
震災遺構として、当時の状態がそのまま保存されている建物や場所に行くと、津波のすさまじさが伝わってきます。
自分が、もしそこにいたら、どうしただろうか、と考えさせられます。
そして、語り部の方のお話からは、当時の様子がじかに伝わってきました。
見るもの、聞くこと、その多くが重い内容でした。
しかし、3年生は真剣な態度で臨んでいました。
私にとっても、内容が重く、情報量も多いので、どのように現実を受け止めてようかわからない面がありました。
それは生徒にとっても同じだったと思います。
見聞した内容を消化するためには時間が必要だと思いました。
人間には、見たこと、聞いたことを無意識にその人に必要な知識や知恵に変えてくれる力が備わっている、と言います。
その力に信頼すること。
それは、食べ物の消化と似ています。
食べたものを、消化しようと思って消化する人はいません。
無意識のうちに、胃や腸が食べたものを消化し、体に吸収してくれます。
それが、その人の体をつくり、日々を生きるエネルギーとなるのです
人間の経験も同じだと思います。
それは、時間をかけて、その人の心のなかで、生きる力、知恵に変えられて行くのです。
以前、「学びほぐし」=アンラーニング(Unlearning)、という言葉を礼拝のお話しで紹介しました。
アンラーニングとは、学んだことを一度、忘れ、自分に合ったものに編みなおすという意味です。
そのことと似ています。
ふとした時に、修養会で見たことや聞いたことを思い出すことがあるかもしれません。
それは、今回の経験を整理し、自分のものとするために、心が一生懸命、働いている証拠です。
そうやって、それぞれの経験が、その人にとって必要な力、知恵に変えられて行くのです。
3年生だけではなく、1,2年生もそれぞれの場所で、今回、さまざまな経験をしたことでしょう。
この経験は、皆さんのなかで、必ず、これから生きて行くために必要な力と知恵になる時が来ます。
すぐには結果として現れないかもしれません。
しかし、人間が見たり、聞いたりしたこと、実際に体験したことは、すべて心に刻まれている、と言います。
それは、いつか形となって、はっきり現れます。
だから、どのような生き方をして、どのような経験を重ねるかが、とても重要です。
それらが、皆さんの人生を作って行くからです。
今日の聖書です。
世を照らす、ともし火のたとえです。
ここには、人が様々な経験を積んで、それぞれの人生を歩むとき、その最終的な目標が示されています。
その人の生き方そのものが、世を照らす光になる、という目標です。
どのように生きるか。善と悪、どちらを選ぶのか、人を憎んで生きるか、人を愛して生きるか、命に通じる道か、それとも死へと通じる道か。
それによって、その人の人生は変わってきます。
聖書は、人が善を選び、憎しみではなく愛を選び、命に通じる道を歩むように招いてくれています。
それは、神様と共に歩む生き方です。
神様と共に歩むとき、やがてその人の人生そのものが、世を照らす光へと変えられるからです。
これ以上の喜びが人間にあるでしょうか。
今回の修養会で、さまざまな経験をしました。
その経験は、皆さんを神様と共に歩む生き方へと、それぞれの背中を、少しだけ押してくれたのではないでしょうか。
その道は命に通じる道です。
それは、「人々が、あなたがたの立派な行いをみて、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と記されているとおりです。
私たちも、その恵みを覚えて、今日の一日、共に歩むものでありたいと願います。
今朝の敬和