自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/09/25
【聖書:ルカによる福音書 15章 4~6節】
あなたがたの中に、百匹の羊をもっている人がいた、その1匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください、」と言うであろう。
今週、水曜日から2泊3日の修養会が始まります。
各学年、実行委員の皆さんを中心によく準備されてきたと思います。
敬和学園は自分探しの学校と言われます。
それは、生徒が3年間の高校生活の中で自分探しをして欲しい、という願いを込めてのものです。
しかし、敬和学園は学校としても、常に自分探しすることを、求め続けられる学校だと思います。
創立のときにキリスト教に基づく人格教育を中心とする学校にしよう、そのように決意してできた学校だからです。
しかし、「人格教育」ほど、分かったようで分からない言葉はありません。
だから、それぞれの時代状況のなかで学校はいかにあるべきかを常に問いつづけなければなりませんでした。
私たちはどこから来て、どこへ向かうのか、そのことを常に考えなければならない学校なのです。
敬和学園が創立されたのは1968年4月です。
当時、日本は高度経済成長の真っ只中にありました。
その4年前には東京オリンピックが、そして2年後には大阪万博が開催されました。
今とは逆で、子供の数が多く、どこにいっても子どもや若者たちの熱気に満ちていました。
しかし、子どもが多いと何が起きるでしょうか。
競争です。子供たちは幼い頃から、厳しい競争を強いられました。
学校は受験教育の場となり、その結果、さまざまな歪み生まれました。
敬和学園の初代校長の太田俊雄先生は、創立にあたって、敬和学園では受験教育を学校の中心にはおかないと決めました。
あくまでもキリスト教に基づく人格教育を学校の中心に据える。
受験中心の学校は他にいくらでもある、それならば新しい学校を造る意味がないと考えました。
受験教育と敬和が目指す人格教育、それらを両立させることは難しいと判断したのです。
今、振り返ってもこれは英断だったと思います。
学校経営のことを考えれば、このような方針を打ち出すことはなかなか難しいことだからです。
今も多くの学校は程度の差こそあれ、受験中心です。
特に私立高校では、特別進学クラスを設け、一部の生徒だけを鍛えて、受験で成果を出すことを目的にしています。
もちろん敬和に、特進クラスはありません。
高校時代に様々な生徒と出会い、受験に偏らない幅広い学びをとおして人間的に豊かに成長して欲しいと願っているからです。
今週から始まる修養会もそのための重要な教育プログラムです。
一人ひとりが普段の学校生活では経験できない気づきと学びをして欲しいと願っています。
今日の聖書です。
「1匹の羊」のたとえという、あまりに有名なお話です。
皆さんは「民主主義」という言葉を聞いたことがあると思います。
民主主義を支えるのは、一人ひとりはかけがえのない尊い存在である、という考え方です。
どんな人も、その身分や貧富の差、国籍、人種、性別にかかわりなく、生まれながらに尊い価値があるという考えです。
このことを最初に発見し、明確にしたのがキリスト教でした。
今日の聖書は、その発見の喜びを伝えます。
このたとえは、以前、敬和の校長をしていた榎本榮次先生が大好きなお話で、私は何回も聞かされました。
内容を紹介します。
ある時、イエスは弟子たちに尋ねます。
「あなたがたの中に、百匹の羊をもっている人がいた、その1匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
そして、見つけたら、その羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください、」と言うであろう。
一人ひとりは神様に愛される、かけがえのない存在であることをこのたとえは私たちに伝えます。
ところで、この群れから迷いでた一匹の羊とは、誰のことでしょうか。
私は、この一匹の羊がなぜ集団から迷い出たのかが気になります。
何らかの理由で集団にいられなくなったのかもしれません。
はっきりしたことは分かりません。
もしかすると、この羊は、集団を離れて自分の人生を生きてみたいと思ったのではないでしょうか。
九十九匹に合わせるのではなく、自分らしく生きてみたい、そう思ったのです。
羊の自分探しです。思春期を生きる中学・高校生の頃には、だれもが経験することです。
そして、羊飼いは九十九匹を残して、必死にこの迷い出た一匹を捜し求めます。
神様の愛は、この一匹に注がれます。
私は、教員になったばかりの頃、榎本校長に質問しました。
「残りの九十九匹を残しておいてよいのですか。むしろ、私たちは、九十九匹の問題のない羊たちの世話をしなければならないのではないでしょうか。彼らを放っておくのは、教師として責任の放棄だと思います。」
先生は答えられました。
「いや、九十九匹はそこに残して、一匹を捜さなければならない。
一匹を追う先生の後ろ姿を見て、他の生徒たちは育つ。
生徒は自分が、集団から迷い出たときも、先生は同じように自分を捜してくれる、ということを知る。
それが先生への信頼につながる。
そして、何よりもイエス様がそのようにするようにと、私たちに教えてくれているのだ。」
このように言われました。
集団から、迷い出た一匹を切り捨て、残りの九十九匹の相手をするのが一般的な学校のありかたです。
しかし、榎本先生は、迷い出た一匹を追うことこそが敬和の教育だ、と教えてくれました。
そうやって鍛えられるから、敬和の生徒は学年が上がるごとに、頼りになる存在に成長します。
たとえば、この時期、3年生の担任の先生は進路のための調査書や推薦書を書くのに大変です。
3年生の修養会実行委員は、教師がいなくても、何でも自分たちでやっていると聞いています。
さすがは敬和生、3年生になるとすごいな、と思いました。
若者が自立するとは、一人になるということ、一匹の羊になるということです。
しかし、これは思春期の若者に限ったことではありません。
年齢にかかわりなく、人が集団から迷い出てしまうことは、いつでも起こりえます。
特に、人が自分らしく生きようとするとき、やむを得ず迷い出てしまうかもしれません。
九十九匹と自分は違う。
そのような孤独を、私たちは誰もが経験するのです。
その時、神様の恵みはその一匹に注がれます。
迷い出た一匹の羊とは、本当は、私たち一人ひとりのことなのです。
そして、そのような私たちが、羊飼いに見つけ出されたとき、地上だけではなく天においても大きな喜びに生まれる、聖書はそのように記します。
それは、一人ひとりの「人間の尊厳」の発見の喜びです。
私たちもその恵みをおぼえ今日の一日、共に歩む者でありたいと願います。
今朝の敬和