自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/09/11
【聖書:詩編 8篇 4-5節】
あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心(みこころ)に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう。
あなたが顧みてくださるとは。
先日、ある転職情報サイトの見出しに、「自分探しより 自分づくりを」というものがありました。
サイトを開いてみると、つぎのような内容でした。
就職して働いてみると、その職場が「本当にそこが自分のいるべき場所なのか」と悩む若者がいる。
なかには、本当にいるべき場所を求めて、転職を繰り返す人もいる。
しかし、「石の上にも3年」ということわざにもあるように、まずその職場で自分の職業人としてのスキルを身につけることが大切ではないか。
つまり、「自分探しより 自分づくり」が重要だ、という内容でした。
なるほどと思わされました。
高校生にとっても、自分づくりは大切なことです。
知識を身につけ、経験をとおして自分にできることを増やして行くことは、将来、社会人として生きて行くために必要なことだからです。
学校での毎日の授業もそのための準備と言えます。
自分づくり、これは学校教育の大きな目的の一つです。
ところで、敬和学園は「自分探しの学校」と言います。
「自分探し」と「自分づくり」、どう違うのでしょうか。
私は、敬和が言う自分探しは、先ほど紹介した、「本当にいるべき場所を求めて転職を繰り返す」若者たちの自分探しとは、全く別のものだと思います。
今日はそのことをお話ししたいと思います。
以前、読んだ本の中に、江崎玲於奈(えざきれおな)という物理学者のお話が紹介されていました。
江崎玲於奈さんは、1973年に、江崎ダイオードの発見によって、日本人として4人目のノーベル物理学賞を受賞された方です。
江崎先生は、よく次のような質問をされるといいます。
「江崎ダイオードというのは、発明なのか、発見なのか」
江崎先生は、次のように説明されます。
「これは発見であって発明ではない。この点を明確にしたい。発明でも発見でもどちらでもいいというような曖昧(あいまい)なものではなくて、発見である。
発明と発見は大きく違うものであって、自分の功績は、こだわるけれど、発見である。」
発明と発見、どう違うのでしょうか。
発明とは何か新しいもの、今までないものを人の創意工夫によって、作りだすことです。
それに対して発見とは、既にそこにあるものを探し出し、明らかにすることです。
普通に考えれば、発明の方が発見より価値があり、人間の役に立つことのように思えます。
ところが江崎先生は、自分は発明ではなく発見をしたのだ、と強調されました。
新しい何かを作ったのではなく、自然のなかに存在していたもの、しかし、今まで人に気づかれずにいたもの、それを発見したのだ、というのです。
その発見が、自分のノーベル物理学賞の受賞につながった。
先生は自然科学の研究とは、自然のなかに隠されている物質や法則を発見することである、そのように言われているように思いました。
私は数学の教員ですが、確かに数学の様々な公式も発明というよりも発見といった方がよいと思います。
因数分解や2次方程式の解の公式も、昔、ある数学者が発見したものです。
その公式を用いて私たちは問題を解きます。
このことは、他の様々な分野においても言えることです。
たとえば、作曲家が今まで聞いたことのない、心奪われるようなメロディーを作曲したとします。
その時、作曲家は、そのメロディーを自分が作ったとは思わないのではないでしょうか。
むしろ、こんなにきれいなメロディーが、この宇宙にはるあった、今、自分は初めて、そのメロディーと出会った、そのように感じるのではないでしょうか。
私たちの「自分探し」も、これと同じことが言えると思います。
つまり、私たちにとって、探すべき自分はすでに存在している、ただそれがどこにあるのか、それがどのような姿をしているのかは、まだ分からない。
「自分探し」とは、新しい自分を作り出すことではなく、既に存在している自分を、あらためて発見する、ということです。
重要なのは発明ではなく発見だ、ということが、ここでも言えると思います。
ところで、自分探しが、既にあるものを見つけるだけだったら、簡単だ、と思うかもしれません。しかし、それは間違いです。
科学者が、今までだれも見たことのない物質や法則を発見するために、どれだけの時間と労力をその研究のために捧げるのか、
作曲家が、誰も聞いたことのないメロディーを作曲するために、どれだけ人知れない努力と、産みの苦しみを経験するか、そのことを想像してみてください。
それと同じように、自分探しにも、長い時間と粘り強い努力、そして諦めない心をもつことが必要です。
ですから敬和学園は、自分探しを教育の中心に据(す)えます。
高校にとって、自分づくりは大切なことです。
しかし、それ以上に自分探しが大切だと考えるからです。
人間にとって本当に大切なもの、必要なものは、その人の人生に既に備えられています。
それをキリスト教では、神の恵みとよびます。
それは、あなたに発見されることを待っているのです。
今日の聖書です。
あなたの天を、あなたの指の業を
わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
皆さんは、天の川を見たことがあるでしょうか。
私は、4年前、52回生の1年次の修養会で、津南のキャンプに参加したとき見ることができました。
その夜は、満天の星空で、天の川も美しく輝いていました。
この詩人も同じように天を仰ぎ、月や星を目にしたのだと思います。
その荘厳な星空を仰ぎながら詩人は思います。
人間とは、いったい何者なのだろう。
星空に比べ、はるかに小さい存在であるのに、神様がこんなにも顧みてくださる人間とは。
星空のもと、詩人は、人間の尊厳に気づいたのです。
私たち人間が、神様に愛される、尊い存在であるということ。
それは新しい自分の発見とも言えます。
その発見の驚きと喜びが、この詩編からは伝わってきます。
私たちもその恵みをおぼえ、今日の一日、それぞれが自分探しの道を歩む者でありたいと願います。
今朝の敬和