自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/07/10
【聖書:エレミヤ書 1章 4-5節】
主の言葉が私に臨んで言う。「わたしは、あなたを胎内に形作る前から、あなたを知っていた。あなたが生まれる前から、あなたを聖別していた。諸国民のための預言者に任命していたのである。」
皆さんの年代を思春期と呼びますが、それを二度目の誕生の時、と言った人がいます。
フランスの思想家ルソーです。ルソーは言います。
「人間は二度、誕生する。初めの誕生は存在するために、二度目の誕生は生きるために。」
初めの誕生とは、言うまでもなく、母親が子供を出産する時です。
初めの誕生と二度目の誕生の違いはどこにあるのでしょうか。
それは、自分の人生を自分自身で選ぶという経験があるか、ないかだと思います。
例えば自分の誕生日、性別や体型、性格などを自分で選んで生まれて来る子供はいません。
二度目の誕生とは、それらを自分であらためて選びなおすこと、と言えます。
選びなおしとは、偶然と思える様々なことがらと向き合い、それらを、もう一度、自分にとって必要でかけがえのない一部分として受け入れることです。
例えば「家族」を考えてみてください。
自分が親や兄弟を選んで生まれてきたわけではありません。
ものごころついたとき、あなたは既に家族の一員でした。
そういう意味で家族とは偶然の出会いです。
しかし、親は愛情をこめて皆さんを育て、その愛情の中で皆さんは大きくなりました。
思春期の今、家族を否定的に受け止めている人もいるかもしれません。
しかし、自分はやはりこの家族でよかった、この家族でなければならなかった、と思える時が必ず来ます。
それが、自分の家族を、自分にとって大切なものとして、あらためて選びなおす、ということです。
家族だけではなく、自分のもって生まれた性格や能力、生まれた環境などにも同じことが言えます。
また、皆さんは中学3年のとき、それぞれが進路選択をしてこの敬和学園高校に入学しました。
それは、敬和生として存在するための第一の誕生とも言えます。
しかし、入学してまだ3か月余りしかたっていない1年生の中には、思っていた学校と違った、と感じている人もいるかもしれません。
敬和生として生きるためには、もう一度生まれなければなりません。
それは、たまたま入学したのが敬和だった、というのではなく、自分には敬和以外の高校は考えられない、敬和学園で悔いのないようにしっかり学ぼう、そのように思える自分になることです。
ですから真の敬和生は、二度、誕生します。
初めは存在するために、二度目は生きるために。
多くの敬和生はこれらの経験をして卒業して行きます。
そして、この「第二の誕生」を、私は「選びなおし」とよんでいます。
「選びなおし」という経験は、多くの場合、思春期に起きるのですが、人によっては、もっと幼い少年の頃に起きたり、逆に中年になって起きたり、さまざまです。
今日は、ある本(「現代〈子ども〉暴力論」芹沢俊介)に載っていた、アメリカの少年の例を紹介します。
少年が生まれた時、両親は彼を育てられず、少年は施設に預けられました。
生後11か月の時、養子縁組が決まり、養父母は、彼にフレデリックという新しい名前をつけます。
フレデリックは7歳になっても、尿失禁や知的な遅れを示したため、養父母は女性の精神科医ドルト先生のもとに連れて行きます。
治療の結果、失禁も知力も回復し、学校にも溶け込めるようになりました。
しかし、一つだけ問題が残っていました。
それは彼が、文字を読もうとも、書こうともしなかったことです。
しかし彼の描く絵には、いたるところにアルファベットのAという文字が書きこまれていました。
ドルト先生はこのAという文字が、誰か人を指しているのではないかと考えます。
事実、養子になる前のフレデリックの名前は「アルマン」だったのです。
先生は少年に、「Aはアルマンの頭文字ではないか」と尋ねます。
そして「あなたは養子にもらわれてきたときに、名前が変わってつらい思いをしたのでしょうね」と話しかけました。
彼は何の反応も示しません。
その時、ドルト先生にある考えがひらめきました。
彼を見つめずに名前を呼んでみよう、と思いついたのです。
あらぬ方向に向けて、天井やテーブルの下に向かって呼びかけました。
「アルマン、アルマン…」。すると少年はその声のする方向にじっと聞き耳を立てていました。
二人の視線が出会いました。
「アルマン、あなたが養子になる前の名前はアルマンでしょう。」
このとき彼のまなざしが、きらりと強く光ったといいます。
この経験をドルト先生は次のように解釈しています。
「この時、彼の中で失われていたアルマンが、フレデリックという、今の自分につながった。
それによって少年は、アルマンではないフレデリックという自分を受け入れることができるようになった。」
少年は1週間後、読み書きができない状態から抜け出すことができたと言います。
なぜ彼は、ドルト先生が直接ではなく、あらぬ方向に向けて呼んだ声に反応したのでしょうか。
それはその声が、誰のものでもない、未知の人の声のようであったからだ、と言います。
未知の声であったから、少年は、人に強制されてではなく、自分の力でその声に反応することができた。
その結果、今の自分、フレデリックを受け入れることができた、というのです。
この時、彼はまだ7歳です。
7歳の少年が、人生を選びなおしたのです。
さて、今日の聖書は若いエレミヤを、神様が、預言者として任命する場面です。
神様は言います「あなたが生まれる前から、わたしはあなたを預言者に選んでいた。」
しかし、エレミヤは「自分はまだ若者です」と言って断ります。
神様は彼を励まします。「恐れてはいけない。わたしはあなたと共にいる。」
エレミヤが聞いた神様の声とは、フレデリックが聞いた「アルマン、アルマン…」という声と同じように、天から聞こえる未知の声だったのではないでしょうか。
エレミヤはその声を魂の底で聞き取りました。
そして、その言葉を受け入れます。
それは、神様に示された新しい自分を、自分の手で選び取るという経験です。
その後、彼は神に仕え、預言者としてその生涯を全うします。
皆さんもこの敬和学園で第2の誕生を経験して欲しいと思います。
今日の一日、その恵みをおぼえて、共に歩む者でありたいと願います。
今朝の敬和