毎日の礼拝

毎日のお話

2023/06/27

小池 正造(東新潟教会牧師)※創立記念礼拝

【聖書:ルカによる福音書 10章 25-37節】

 

「行って、あなたも同じようにしなさい」

 今日の聖書の物語ですが、有名な「よきサマリア人」という譬え話ですが、話しの始まりは、当時のユダヤ人の最大の関心事であった「永遠の命」についての議論から始まります。当時のユダヤ人にとって、また私たちクリスチャンにとって、永遠の命や神の国は、とても大きなテーマです。当時のユダヤ人が広場に集まれば、どうしたら永遠の命を得る事ができるのだろうか、また、神の国に入るにはどうしたら良いのだろうかと、議論が始まります。皆、自分の知っている知識を主張しあって、白熱するのです。その指導的な立場にあったのが、律法学者と呼ばれる人たちです。彼らは、私たちの持っている旧約聖書、律法の書を、深く研究していました。そして、その中からどのようにしたら、神の国に入る資格を得るのかを探っていました。更に、自分たちが知識を得るだけでなく、その研究の成果を民衆に教えるという働きをしていました。ですから、民衆から「先生」と尊敬されていました。律法学者は、律法についての知識があり、民衆の尊敬を集めていたのです。

 ある律法学者が、人々の人気を集めていた主イエスを試そうとして、このテーマを尋ねるのです。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐ事ができるでしょうか」(:25)。これで、主イエスの律法に対する理解度を測ろうとしたのです。ところが、逆に尋ね返されます。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(:26)と。律法学者はすぐさま回答をいたします。いつも議論している王道のテーマです。答えられないはずはありません。即答です。おそらく朗々と唱えたのでしょう。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(:27)と。大正解です。律法の中心とされる2つの愛について、すなわち、神への愛、隣人への愛について、答えています。主イエスは律法学者の回答に「正しい答えだ」(:28)と満点を与えます。しかしこの後に気になる言葉が付け加えられます。「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(:28)と。彼らは、いつも議論をしていました。聖書のここにはこう記されている。こちらにはこうある。だから、こうあるべきだ、と。たくさんの議論が積み重ねられ、究極の答えが探求されます。ですから、主イエスとの議論でも正当を得、主イエスを打ち負かしたかのように見えました。彼は、多くの知識を持っているのですから。

 しかし、主イエスのひと言にうろたえるのです。「それを実行しなさい」(:28)と求められた時、自問するのです。そして実践の壁にぶち当たるのです。今まで自分は何をしてきたのか。瞬時に走馬灯のように巡ります。そして、主イエスがどうしていたのかを思い巡らし、比較をします。そうした時、自分は、何もできていない事に気がつかされます。そこで、彼はどうにかして、自分を正当化する言い訳を思い巡らせるのです。律法学者というプライドがあります。正直に、何もできていないとは答えられないのです。主イエスを打ち負かさなければなりません。自らの弱さを見せられません。私は彼が何もしていないとは思いません。でも、思い巡らせる時、自分に見合うどんな愛の実践をすれば良いのだろうか。誰にするのがふさわしいのだろうか。妄想は大きく膨らみます。膨らめば膨らむほど、ハードルも上がります。他者との比較の中で、律法学者である私に似つかわしい愛の実践はこうでなければならないと、とてつもない事を思い浮かべるのです。すると、何もできなくなるのです。何もしていないとしか答えられないのです。でも、正直に言えない。だから、言い訳を考えるのです。「では、わたしの隣人とは誰ですか」(:29)。私にとっての隣人が誰か分からないから、定められないからしていないだけで、命じられれば出来る、と言わんばかりです。

 そして主イエスは、有名な譬え話「よきサマリア人」を語り始めるのです。譬え話だけでも、授業で、討議やロールプレイをしたりと、一コマ二コマ楽しめるのですが、本題からズレますので今日は割愛します。主イエスは、譬え話を語り終えると、彼に尋ねます。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(:36)と。彼は、「その人を助けた人です」(:37)と答えます。彼を助けたサマリア人が、傷を負った旅人の隣人となったと答えるのです。サマリア人について補足説明をします。ユダヤ人とサマリア人は、本来は同じ民族です。しかし、ソロモン王の罪によって、ユダヤ人の住む南ユダと、サマリア人の住む北イスラエルに分断され、同じ民族でありながら、宗教的儀礼の違いによって、犬猿の仲となります。正しくは、ユダヤ人が、サマリア人は汚れていると侮辱するという構図です。こうした背景の中で、傷ついたユダヤ人を、同胞であるユダヤ人は助けず、敵対するサマリア人が助けて介抱するという事で、この譬え話は「よきサマリア人」と言われます。

 では、なぜサマリア人は助けたのでしょうか。同胞ではなく、犬猿の中です。知り合いでもないでしょう。彼を助けたところで、自分の商売の得にはなりません。むしろ損でしかありません。サマリア人が助けるべき理由は、何一つ見つかりません。ただ聖書が言っているのは、気がついてしまったからだ、と。彼が苦しんでいる、困っている事に、気がついてしまった、かわいそうに思ったからだけだ、と。「その人を見て、憐れに思い」(:33)とだけあります。それ以外には何も無いのです。

 まして、サマリア人が善人だとも書いていません。彼が支払った2デナリオンは、現在の価値に換算すると、約2万円程度となります。子どもの時分には確かに高額と感じましたが、果たして大人の経済学で捕らえる時、それほど大きな負担でしょうか。何日もかけて、介抱のために傷ついたユダヤ人と滞在し、本来の商売という目的をダメにしてしまうよりも、2デナリオンを払って、自分の目的を果たす方が効率的です。おそらく儲けも多いはずです。何もしなかった同胞に比べると、はるかに素晴らしよい業を行っていますが、かといって、サマリア人は、彼を介抱するために、自分の目的を犠牲にするという事は、何もしていないのです。彼は、特別に何かを行ったのではありません。自分の犠牲を2デナリオンという最小限に抑えて、できる奉仕をしただけです。決して特別ではないのです。

 よくアニメなどで、よい人の典型例のように、信号を渡るお年寄りの手を引くシーンがありますが、あの程度の事です。私たちにもできそうなちょっとした事なのです。

 実は、今日この場に立つために、足がなくて困っていました。つい先日、これまで使っていた車を廃車にしたばかりだったからです。市バスで時間までに来るには少し不便ですから、Y先生に事情を説明して、スクールバスに乗せていただけませんかと相談しました。すると、先生御自身が、車で連れてきてくださると提案してくださったのです。とても助かりました。この事も、一つの例と考える事ができます。

 皆さんの身近で、困っている人、助けを求めている人の力になる事は、決して難しい事ではありません。勉強の分からない人と一緒に考える事も、一人で居残り練習している後輩と一緒に練習する事も、重い荷物を持っている人に手を差し伸べる事も、あなたのできる、隣人を愛する事です。でもそれは、こうしなさいと言われてする事ではありません。自分で見出さなければなりません。愛の実践は、誰かに関心を持つ事、そして、ちょっとの勇気を振り絞って、実践する事です。何をしたら良い、こうすべきだという理論は必要ありません。律法学者にはそれがたくさん詰まっていました。しかし、あまりにも大きな妄想を描きすぎて、一歩が踏み出せないのです。勇気が出てきません。でもイエスさまが仰るのは、大股を広げすぎた一歩ではなく、日常の一歩です。あなたが踏み出すことのできる一歩です。その一歩を「行って、あなたも同じようにしなさい」(:37)と命じるのです。

 敬和生活を満喫しているでしょうか。この一歩を踏み出す時、私たちの未来は大きく広がっていきます。これまでの小学校、中学校という決まった枠組みの出会いではなく、これからの私たちの歩みは、常に異質との出会いです。勇気を持った一歩を踏み出し、尊い隣人との出会いをしてください。それが、ひいては、永遠の命を望む、自分を見つける事、見つめる事となるからです。