自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/06/19
【聖書:マタイによる福音書 25章 40節】
そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
皆さんには思い出の場所、もう一度訪れてみたい懐かしい場所はありますか。
「日本縦断 心旅」というNHKのテレビ番組があります。
俳優の火野正平さんが視聴者からいただいた手紙に記された思い出の場所に自転車で訪れながら日本列島を縦断するという番組です。
先日の放送では70代の女性の方が、小学生の頃、よく遊んだという神社を訪れました。
高齢のためなかなか訪れることができないが、どうしてもその風景をもう一度見てみたい、とのことでした。
訪れた神社で火野さんがお手紙を朗読します。
すると、誰もいないその神社の庭に子供たちが楽しそうに遊んでいる情景が浮かんで来るようでした。
この女性にとって神社で遊んだ日々がかけがえのないものだったのです。
誰にでもそのような懐(なつ)かしい場所があります。
私は栃木県の宇都宮市で生まれ、高校を卒業するまでそこに暮らしました。
両親が7年前に亡くなってからは、訪れることはなくなりました。
しかし、自分が小学生で両親も今の自分よりずっと若かった頃、家族みんなで楽しくすごした場所が今も懐かしく思い出されます。
先日、敬和の1回生、3名が来校されました。
70歳になった記念に母校を訪れるという計画を立てたそうです。
それぞれ立派なお仕事をされた方ですが3名のうち2名は県外からです。
私が学校の中を案内しましたが、廊下ですれ違う時、多くの生徒が挨拶をしてくれました。
自由な雰囲気と礼儀正しさのバランスがとれていて良いですね、とほめてくださいました。
1回生が在学していた当時、校舎といえば今の「みぎわ館」(女子寮)だけでした。
そこになんと教室と寮が入っていたのです。
今では想像できないほど小さな学校でした。
チャペルに案内したときはその大きさに驚かれ、思わず歓声をあげました。
また卒業生の名前が刻まれたプレートを見て大変喜ばれました。
同級生や担任の先生の名前を懐かしそうに眺め、昔のことを3人で楽しく話していました。
「このプレートは卒業生にとって大変ありがたい、」と言われました。
チャペルにはOMホールという部屋があります。
初代校長の太田俊雄先生と太田先生を支え、敬和創立のために大きな働きをされたジョン・モス先生を記念する部屋です。
その部屋に入り、柔道着をまとった太田先生やモス先生の写真を見たとき、3人は懐かしい、と言って感動していました。
当時を思い出し、胸がいっぱいになっているようでした。
部屋を出た後、一人がこんな話をしてくれました。
高校生の時、自分は校則に違反する行為をしているのを、たまたま見回りにきた敬和の先生に見つかってしまった。
先生は次のように言われた。
「今回は特別に見逃す。しかし、一つ条件がある。それは次の僕のテストで限りなく満点に近い点数をとることだ。」
それで一生懸命勉強しました、ということを懐かしそうに話されたのです。
今なら、問題になりそうですが、当時はそれを許す、大らかさが日本の学校にはありました。
私は、この1回生の訪問をとおして教えられたことがあります。
それは、敬和教育の原点にあるのは教師と生徒の出会い、その人格的関わりだ、ということです。
建物など設備が整っていなかった当時、敬和にあったのは、教師と生徒の人格の交わりでした。
それは生徒同士の絆をも強いものとしました。
それが敬和教育を造る土台となったのです。
今も、このことは大事にして行かなければならないとあらためて思いました。
そして、そのような出会いをたくさん経験したからこそ、来校された3人の方にとって、敬和はかけがえのない場所になったのだと思います。
先日、フェスティバル(学園祭)が行われました。
見学に来られていた新潟教会の長倉望牧師は6月11日(日)の礼拝説教で次のようにお話しされました。
今年は、4年ぶりで卒業生が帰って来ることが解禁になりました。
卒業生はグラウンド周囲のいろいろなところで、目を輝かせ、満面の笑みで、ある人は涙を浮かべながら、駆け寄って再会を喜んでいました。
心の底からの笑顔を見ながら、こちらも嬉しくなるとともに、一人一人の中に敬和で仲間と過ごした3年間が、どれほど大きな、大切な時となっているのか、ということを想像させられました。
在学中は楽しいことだけじゃない、つらく、悲しいこともあったでしょう。
けれども、そういういろんなことを一緒に乗り超え、一緒に歩んだからこそ、心の底から再会を喜べるのだと思うのです。
さらに長倉先生は、この再会によって、敬和を離れた卒業生たちが、それぞれの場所で今を生きるための力を分かち合っているように思うと言います。
卒業生たちは、仲間と再会することを通して、自分の原点を確かめ、それを「自分の今を照らし出す光源」とし、生きる力をもう一度分かち合っているように感じられるからです。
それぞれが、今度は敬和ではない世界で生きて行こう、そういう励ましが、フェスティバルに帰ってくる卒業生たちにはあるのではないでしょうか。
敬和教育を理解してくださっている先生の素晴らしいお話でした。
さて、先週金曜日、4名の教育実習生が3週間の実習を終え、それぞれ大学に戻りました。
全員が敬和の50回生です。
ある実習生が反省会で言われました。
「自分はこの敬和で実習できたことがとても嬉しかったです。」
敬和への愛が伝わってきました。
彼らは、敬和ですごした3年間の意味をこの実習期間を通じて再確認できたのかもしれません。
そして、今はそれぞれ大学に戻り、再び勉強や就職活動に励んでいると思います。
今日の聖書です。
「わたしの兄弟であるもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
ここで、わたしとはイエス・キリストのことです。
私たちが知らず知らずに行っている小さなこと、それらは実は神様に対して行っていることでもある、というのです。
今、皆さんが何気なくすごしている敬和での生活。
それは私たちの思いを超えた大きな意味をもっているものかもしれません。
ですから、この3年間がそれぞれの人生において、かけがえのないものとなるような高校生活を、今、送って欲しいと思います。
そのための新しい一歩をそれぞれが踏み出してください。
そして、ここが皆さん一人ひとりにとって、将来、懐かしい場所となることを願っています。
今朝の敬和