自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2023/03/15
【聖書:ローマの信徒への手紙 7章 14~15節】
「しかし、わたしは、肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分りません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」
一昨日の礼拝後、生徒会長から制服に関する校則改正案についてお話しがあり、昨日は生徒総会が開催されました。
会長のお話しの内容、そして、それにともなう生徒会を中心とする一連の動きに私は驚きました。
これは、すごいことが起きている。
会長のお話しからは、学校生活を全校生徒にとって、より豊かなものにしたいという思いが伝わってきました。
制服に関するルール改正という大きな問題に取り組むため、かなりの時間をかけて準備してきたことがうかがわれます。
それを議案として提案し、民主的な手続きによって決めることができました。
特に素晴らしいと思ったのは、敬和が大切にしていることを、制服の問題をとおして形にしたことです。
つまり、「一人ひとりの個性を大事にしながら、学校全体の規律を守るにはどうすればよいか、」という難しい問題です。
これを今回、全校で決めることができました。
年度の最後、敬和生の素晴らしい姿に接することができて嬉しく思います。
さて、今日は、いよいよ2022年度、終業の日です。
1年間、お疲れさまでした。
それぞれが様々な思いで、今日の日を迎えていることでしょう。
高校時代の1年は、長い人生のなかでも特別の意味をもっています。
年を重ね、大人になってからの1年とそれは、まったく違います。
今日はそのことを少しお話ししたいと思います。
先日、あるラジオ番組(NHK「夜開く学校・飛ぶ教室」2月24日放送)で、小説家の高橋源一郎さんが、興味深い動画を紹介されました。
それは、アメリカの法廷ドキュメンタリーを集めたものの中にあって、大きな話題になったものです。
固定カメラで撮影されているので記録用の動画だったのでしょう。
裁判の判決の日の裁判長と被告、双方の様子を撮ったものです。
2015年6月30日、強盗罪と逃走罪の疑いで逮捕された49歳のブース容疑者は、女性のグレーザー裁判長が罪名を述べて行くのを、無表情で平然とした顔つきでながめていました。
この15年、ほぼ刑務所ぐらしのブース容疑者に、反省している様子はまるでありませんでした。
最後にグレーザー裁判長がこう言いました。
「ブースさん、一つ質問があります。」「どうぞ。」「あなたはノーチラス中学校に通っていましたか。」
その瞬間、ブース被告は驚いた表情になり、裁判長の顔をじっと見つめ、ふるえる声でこう叫んだのです。
「オーマイグッドネス!」(Oh my goodness!=何てことだ!)
グレーザー裁判長は静かに話しかけました。
「ここであなたに会うのは残念です。あなたに何があったのか、ずっと知りたかった。」
「オーマイグッドネス! オーマイグッドネス!」
ブース被告はただこう叫び、気持ちを抑えられず、顔をおおって泣き出したのです。
裁判長は、悲しげに微笑みながら、法廷に臨席している人々に話し始めました。
「彼は中学校でほんとうに優秀な子でした。よく一緒にサッカーをやったわよね。あなたがここにいることがとても残念です。ブースさん、あなたが人生の道筋を変えるように祈っています。がんばって。」
そして、最後に両手を前に組んでこう言ったのです。
「二人ともこんな歳になったわね。悲しいわ。でもがんばって、気を取り直して法を守る生活を送ってください。」
有名中学から有名高校へ、ずっと二人は同級生で親友でした。けれども、ブースは道を踏み外し犯罪者に、グレーザーは裁判官になっていて、30年ぶりの再会だったのです。
判決後、10か月収監、模範囚として、早々に釈放されたブースを出口で待っていたのは、家族とグレーザー裁判長でした。
ブースは人生の道筋を変え、今は製薬会社のマネージャーとして飛び回っているそうです。
このようなお話です。
私も動画を見ましたが、これは実際にあったことです。
何がブースさんの生き方を変えたのでしょうか。
グレーザー裁判長との30年ぶりの再会です。
裁判長に声をかけられた時、彼の中で中学・高校時代の記憶がよみがえったのです。
彼は顔を手でおおって、法廷で激しく泣き出します。
自分はいったい、何をしているのだろう。こんなはずではなかった。
しかし、その絶望の中で、彼は、初めて「本当の自分」と出会うことができたのだと思います。
それまで見失っていた本来の自分と。
中学・高校を一緒にすごした、親友であるグレーザー裁判長に助けられて、彼は本当の自分と出会い、変わることができました。
一緒に過ごした夢にあふれる中学・高校時代の日々は、何年たとうと、消えることはありません。
それは、かけがえのない1日1日です。
その記憶が、彼を変えたのです。
私はこの話を聞いたとき、讃美歌「アメージング・グレース」を思い出しました。
毎朝、礼拝前にチャペルに流れる英語の歌です。
アメージングとは、「驚くべき」とか「不思議な」という意味です。
グレースは「恵み」、特に人間の力を超えた「神様の恵み」を意味します。
この讃美歌の作詞者ジョン・ニュートンは250年前のイギリス人の牧師です。
彼は若い頃、父親を見習うようにして船乗りになりました。
しかし、いつしか人身売買をする「奴隷貿易」に手を染めるようになりました。
アフリカから黒人を無理やり連れてきて、アメリカに奴隷として売る仕事です。
ジョンは22歳になる1748年、大きな転機を迎えます。
貿易中、嵐に襲われて、あわや転覆の危機に見舞われるのです。
それまで信仰心を持つこともなく、奴隷を売買して富を得ていたジョンでしたが、このとき初めて全身全霊で神に祈り、助けを乞いました。
すると船の浸水が弱まり、沈没を免れたといいます。
この出来事により、彼は奴隷貿易の罪を悔い、キリスト教を学ぶようになりました。
彼が、船を降りて牧師になったのは、その7年後、1755年のことです。
そして讃美歌「アメージング・グレース」を作詞しました。
今日、歌った讃美歌451番ですが、歌詞が昔の日本語で分かりにくいので、現代語に訳したものを紹介します。
「アメージング・グレース」
驚くべき御恵み、なんと甘美な響きでしょう。
神は私のような惨めな者を救ってくださった。
私はかつて道を踏み外し、さ迷っていたけれど、今は見つけ出された。
以前は見えなかったものを、今は見ることができる。
人間の本当の救いと罪の赦(ゆる)しは、どのように与えられるのか、
讃美歌「アメージング・グレース」は、そのことを教えてくれます。
人間は、自分の力では、救いも罪の赦しも得ることはできません。
それは、自分の力を超えた、神様からの不思議な恵みによって与えられるのです。
最初に紹介した、ブースさんが救われたのも、幼馴染のグレーザー裁判長が彼のことを憶えていて、声をかけてくれたからです。
その声がけがなければ、ブースさんは今も犯罪を繰り返していたでしょう。
そこには人間の力を超えた、神様の愛が働いていたのです。
聖書には、イエス・キリストの十字架によって人の罪が赦された、と記されています。
罪を犯さない人間はいません。
使徒パウロは言います。
「わたしは、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分りません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」
ブースさんも奴隷商人だったジョンさんも、私たちと無関係ではありません。
彼らは、「赦された罪びと」として、それぞれ新しい歩みを始めました。
私たちも、「アメージング・グレース」=神様の驚くべき恵みに励まされて、4月から、それぞれの新しい歩みを始める者でありたいと願います。
終業礼拝