自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2022/10/31
校長 小田中 肇
【聖書:マタイによる福音書15章25~28節】
しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
生徒会を中心に服装を整える取り組みを行っていますが、皆さんの服装がきちんと整って来ていることを嬉しく思います。
敬和は生徒と教師が力を合わせて学校を造って来た歴史があります。
教師だけではできなかったことを生徒の皆さんが自分たちから取り組み始めたことは素晴らしいことだと思います。
ぜひ、制服を正しく着こなして、互いが気持ちよく過ごせる学校を造って行きましょう。
さて、今日の聖書は、ある外国人の女性が、イエスに病気の娘を治してくださるようにお願いする場面です。
前後を補います。
イエス一行がティルスとシドンという町に行ったときのことです。
そこは現在のレバノンにある町ですが、イエスが活動したイスラエルからは遠い外国です。
すると、その土地生まれのカナン人の女性が現れ、イエス一行につきまとい、重い病気になった娘を治してくれるように頼みます。
女性はイエスに向かって叫びます。「主よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」
ところが、イエスは何も答えません。
弟子たちは、女性があまりにしつこいので、娘の病気を治すようにイエスに頼みます。
それに対してイエスは次のように弟子たちに言います。
「私は、イスラエルの失われた羊のところにしか、つかわされていない。」
つまり、自分は自分の所属するイスラエルの人のためにつかわされている、だから外国人の女性の子どもを治す気はない、と答えるのです。
それでも、女性はイエスの前にひれ伏して頼みます。「どうかお助けください。」
それに対してイエスは答えます。
「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」
子供たちとはイスラエルの人たちです。そして小犬とは外国人のことです。
イスラエルの人のためのパンを外国人に与える気はない、と言うのです。
しかし女性はイエスの言葉にひるむことなく続けます。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
この一言がイエスの態度を変えます。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
このようなお話しです。
一般にこのお話しは、女性の言動を中心に解釈されます。
つまり、もし神様にかなえて欲しいことがあるなら、この女性のように、たとえ無視されても、また冷たく扱われても願い求め続けることが大事だ。
一度や二度、神様に拒否されたからといって諦めてはいけない。
求め続けるならば、神様は最後には必ず願いを聞いてくださる。
このようなメッセージです。
同じマタイの福音書には次のようなイエスの言葉があります。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたくものは開かれる。」
敬和生なら、みんなよく知っている言葉です。
このような理解に私もまったく同意します。
しかし、それだけではない何か別のメッセージが、このエピソードには込められているように思います。
イエスの言動に目を向けるとき、このお話しに何か違和感を覚えないでしょうか。
私たちがイメージするイエスとは何か違う印象を受けないでしょうか。
つまり、外国人である女性に対して、イエスが差別意識をもっているように思えてしまうからです。
女性が助けを求めても、自分はイスラエルの人のためにつかわされている、そう言って女性を無視します。
また、イスラエルの人々は子供と呼びますが、外国人のことは小犬と平気で言っています。
当時から、人を犬と呼ぶのは相手を軽蔑している場合です。
これはイエスが他の箇所で言っていることと全く違います。
イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と命じています。
その同じイエスが、ここでは外国人を露骨にバカにして差別しているのです。
これはどういうことでしょうか。
それは、イエスがどのような社会に生まれ、どのような教育を受けて育ったかを考えれば明らかになります。
イエスは、イスラエルつまりユダヤ人の共同体に生まれ、そこで成長し、成人しました。教育によってその伝統文化を深く身に着けました。
イエスは、ユダヤ民族こそが、神様によって選ばれ、愛される特別の民族だ、それに対して外国人は汚れた存在だ、そのような考えを徹底的に教え込まれたのです。
ですから、「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」などと語るのも、当時のユダヤ人社会で教育を受けた者にとっては、極めて自然なことでした。
しかし、このエピソードで一番、大事なことは、このように育ったイエスが、考え方を変えられた、ということです。
つまり、この外国人女性によって、イエス自身が、それまでの生き方、価値観を変えられるという経験をしたのです。
では、何がイエスを変えたのでしょうか。
諦めることなく、求め続ける女性のまっすぐな姿、そして娘の救われることを願うひたむきな思い、それらに直(じか)に接して、イエスの中で何かが変わったのです。
言葉では表せない女性自身の身体からあふれ出て来る大きな力に触れて、イエス自身の中に、ある感情がこみ上げて来たのです。
それは自分がそれまで受けた教育に反することかもしれない、しかし、何んとかこの外国人女性の力になりたい、娘を救ってあげたい、そのような思いがイエスの胸に突然こみ上げてきたのです。
その結果、イエスは思わず娘の病気を治してしまいます。
これはイエスが一人、部屋で考えた結果、生まれた変化ではありません。
この女性の生き方、その身体から出て来る言葉にならない強い願いに直に触れ、それに触発されて起こったことなのです。
今も世界には多くの差別や対立があります。
私たちも日本の伝統文化の中で育ち、知らず知らずのうちに様々な偏見や差別意識が身に刻まれているはずです。
それは、イエスが自分の民族だけが神様に選ばれている、という教育を受け、外国人に差別意識をもったのと同じです。
しかし、イエスはその自分の中の差別意識を克服しました。
今日のエピソードは、そのような差別意識を超える道を私たちに示してくれます。
イエスは外国人女性の生き方に直に触れることによって変えられました。
自分自身のなかの差別意識を克服するためには、相手の生きる現実に触れること、相手をよく知ることが必要です。
もし機会があれば、若い頃に海外に旅行をしたり、留学や海外研修などを経験するのもよいと思います。
また、今、世界の様々な地域で戦争の危機が叫ばれています。
人々の中に、知らず知らずに刻まれた偏見や差別意識がその危機を高めます。
平和な世界を実現するためには、相手を知るための努力を続けなければなりません。
そのとき、神様は私たちに思いも寄らない形で、互いへの理解をもたらしてくださいます。
なぜなら神様は何よりも平和と愛の神様だからです。
その恵みを覚えて今日の一日、共に歩む者でありたいと願います。