毎日の礼拝

毎日のお話

2022/10/21

ハグマン アンダース(英語科)

エフェソの信徒への手紙 6章 10-11節

皆さん、おはようございます。

今日私はこれまでの人生で学んだ、最も価値のある教訓の一つを皆さんにお伝えしたいと思います。

それは私がほんの5才か6才の頃に起こったことなのですが。

その頃私は、小さな町のとても美しい場所に住んでいました。

そこには若くてとてもフレンドリーな家族がたくさん住んでいました。

週末にはいつも友達みんなで近所の家の周辺を走り回っていました。隠れん坊をしたり、友達の家の裏庭を探検したりもしていました。

その当、時私たちにとってとても楽しいけれども、とても危険な遊びがありました。

隣人の一人が犬を飼っていました。

その犬は年を取っていて不細工で、よく怒りっぽくなることがありました。

特に私たちが、その犬の住んでいる家の庭に侵入した時です。

その犬の飼い主はお年寄りで、毎日庭で過ごすか、買い物に出かけていました。

彼が外出している時、私たちはよくその庭に侵入して、その番犬にどれだけ近づくことができるか勇気を試すというようなことをやっていました。

その犬が追っかけて来ても鎖の力で引き戻され、それを見て私たちは笑って逃げました。

その犬は自分の庭から出ていけという警告をするかのように吠えましたが、私たちはそれをからかっていました。

ある日私たちはみんな一緒にそこへ行って、誰がその犬の水が入った皿をつかむことができるかというゲームをやりました。

年上の子供たちの一人がその皿をつかむことができ、同時に間一髪で私たちはその犬から逃れることができました。

不幸にもその男の子は転んで、犬に捕まってしまいました。

その犬はその男の子のお尻に噛みつき、出血したばかりでなく、あざが残りました。

一度その犬は水の入った皿を取り戻し、ガレージのそばのマットの所まで戻ってきました。

私は友達が泣いているのを見て可哀そうに思い、彼が母親にそのことを報告に行った時、私も彼について行ってあげました。

しかし、私たち二人はその水の入った皿を取ろうとして、その犬をからかったことは話しませんでした。

私たちは友達にそんなけがをさせた、その犬に罰を与えたい気持ちでいっぱいでした。

そのお年寄りも何も語らず、ただ私たちに自分の所有地から出て行ってほしいと、ぶっきらぼうに繰り返し警告するのみでした。

私たちにとってそのお年寄りと彼の犬はただの気難しやで、彼らのとった態度と友達のけがに対して償いをしてほしかったのです。

その地域に住む家族のほとんどが同じ気持ちでした。

ただ一人の例外を除いて。

私の父です。

実際、友人のけがで警察が関与することになった時、父はそのお年寄りの側に立ち、彼の代わりに抗議すらしたのです。

しかし、父の努力は無駄でした。

警察はその犬を連れて行って、殺処分にしてしまいました。」

私は初め父に怒りを感じていましたが、その犬を死に追いやってしまったのは行き過ぎだったと深く感じました。

私が父になぜ友達にけがを負わせた犬の飼い主の弁護をして、近所の人たちみんなを敵に回したのかを尋ねた時、

父はそのお年寄りの過去のいきさつを話しました。

そして私と友達みんながその男性をあんなに手厳しく罰したのが、いかに間違った行為だったのか父の話で気づきました。

彼は気の毒な人で、私たちがからかったその犬もまたそうでした。

しかし、彼はいつもそうだったわけではありません。

かつて彼には妻と娘がいました。

彼らは幼い犬を飼っている幸せな愛情に満ちた家族でした。

彼は娘を交通事故で失い、妻もその後数年して癌で亡くなっているのです。

そして彼に残されたのはその年取った犬のみでした。

そして私と友達たちの軽率な行動のせいで、彼は唯一の家族である犬さえ失うことになったのです。

もし私たちが両親に全てを打ち明けていれば、その犬は命を落とさずに済んだかもしれないのです。

私は本当に自責の念にかられ、今日(こんにち)でもそのうしろめたさを引きづっています。

その日私は、自分が悪い奴であると悟りました。

私は警察がその男性の犬を連れて行ったその日のこと、そして彼の悲痛な表情を一生忘れないでしょう。

そのことが私の心に深く刻み込まれたのです。

私の近所では、私の父ともう一人の高齢の女性のみがその男性を慰め、励ましたが、その他の人たちは自分たちの子供がその怒りっぽい犬に今後噛まれる心配がなくなったので、嬉しそうな顔をしていました。

私が全く違う状況にいたので、近所の人たちはその結果に満足しているようでした。

私は自分が悪い奴らのうちの一人だと気づいた日でした。

私は二度とそんな人間になりたくありません。

それは多くの人たちが受け入れるのを拒む、とても厳しい教訓なのです。

幸運にも私には両親がいて、このことから学ぶことができたのです。

その事件があった数か月後に私の家族は引っ越し、そのお年寄りもその少し後に引っ越していったようです。

父は時々彼を訪ねましたが、私は一緒に行きませんでした。

彼の顔を見ることができなかったのです。

私は今日までその男性に謝る機会を持てなかったことを、とても悔やんでいます。

もうその機会は巡ってこないのです。

しかし私は皆さんと私の考えを共有する機会を得られたと信じています。それは一方の主張だけが表れていると思われる紛争です。

それはウクライナにおける紛争です。

見落とされていることは、起こったこと全てが紛争につながっているということです。

ロシアが邪悪な国だから突然攻撃したということではありません。

その紛争がさらに悪化している時に、私たちがどちらかに味方したり、支援したりする前に理解しなければならない長い歴史があります。

これはロシアのトップに責任がないということではなく、NATOの介入や、現在ウクライナが支配している地域で行われている残虐行為についても議論するべきです。その地域に住むロシア民族は、長い間独立を求めて戦ってきて、軍事的手段も避けられなかったのです。

2014年にCIAや西洋諸国がクーデターを支援して以来、何千もの人たちがその紛争で死に、その大多数の人たちが独立を求めて戦っているのです。

もし皆さんが私の意見を求めるなら、皆さんの相手となる人の目線を通して全ての問題を見ることが重要です。

こうすることで、私たちはそれらの問題がどこから生じたのかをよりよく理解できます。私たちが本当は悪い奴らではないということを確かなものとするために。

それは私がロシアに味方するということではありません。

私はあらゆる軍事的な攻撃に反対なのです。

私はまた、そういった国々のリーダーたちに、特に西側諸国でメディアを使って情報(時には虚偽の)を流すリーダーたちに反対なのです。彼らは侵略行為を正当化したり、世界中の不当な紛争を支持したりします。

戦争においては本当のいい奴らは存在しないのです。

勝者たちが最終的に悪者だと判明することがよくあります。ちょうど一人ぼっちのお年寄りから犬を取り上げた上、命を奪った隣人たちのように。そしてその原因が自分たちの子供の馬鹿げた行為にあるというのに。