月刊敬和新聞

2022年4月号より「いのちの泉 ~入学祝福礼拝より~」

校長 小田中 肇

 55回生の皆さん、ご入学おめでとうございます。今日はこのようにして、入学祝福礼拝を行うことのできることを、大変、嬉しく思います。初めに、この三月に卒業した皆さんの先輩が残した卒業文集から紹介したいと思います。これから高校生活を始めようとする皆さんにとって、参考になることがあると思うからです。

変えられた自分
 ある男子・通学生の文章ですが、次のように始まります。

「三年前の春、良い大学に行くという野望だけを抱え、私は敬和学園高校に入学しました。第一志望の高校に落ちて敬和に来た私は、入学した喜びや敬和での楽しみなど持たず、ただ三年間勉強だけに時間を費やそうと考えていました。その頃の私は、入学式の日に母から記念写真を撮ろうと言われても、めでたいことではないと考え、撮らずに家に帰るほど、やさぐれていました。」

 彼の高校生活の始まりはこのように、かなり否定的なものでした。ですから、もちろん自分から人と関わろうとはしません。ところが、無理やり彼を人の輪の中に入れようとする友達ができます。その友達のおかげで少しずつ友達ができ、学校が楽しくなったと言います。そして文集の後半では次のように書いています。

「私が敬和に来て変わったことは、人の長所と同じくらい短所を愛せるようになったことです。相手に嫌な部分があったとしても、共に過ごす日々の中でそれを超える良さがあることに気づき、嫌な部分も含めてその人は『良い人』なのだと思えるようになりました。」

 人間的な成長を感じさせる言葉です。さらに次のように続けます。

「それと同時に、自分自身の嫌なところを受け入れ、私という存在を大切にすることができるようになりました。」

 そして文集の最後を次のような言葉で締めくくっています。

「入学式のときは記念写真を撮らずに終わったけれど、今の私なら最後の記念写真を最高の笑顔で撮れると思います。」

 敬和学園は自分探しの学校とよばれます。彼が三年間、どのような自分探しをして来たかが伝わってきます。

愛を学ぶ
 キリスト教では、自分の好き嫌いを超えて、相手の人格を認め、大切にすることを「愛」とよびます。それは自分の好き嫌いという枠を超えて、相手をかけがえのない、共に生きる者として受け入れることです。そして人を愛することができるとき、同じようにありのままの自分を受け入れ、自分を肯定することができます。これから始まる敬和の三年間が、皆さん一人ひとりにとって、この「愛」について学ぶ三年間であって欲しいと願います。

泉をもとめて
 聖書には「命の泉」について記されています。自分探しとは、この「命の泉」を求める旅です。では、命とは何でしょう。人や生き物には命があります。草や花、樹木にも命があります。では、空や星、風や光には命がないのでしょうか。たしかに生物的な命はないかもしれません。しかしそれらにも私たちは命を感じることがあります。他にもさまざまなところで、私たちは命に出会います。
 皆さんは「人の住まなくなった家は、いたむのが早い」と言われるのを聞いたことがないでしょうか。実際、空き家になった家は予想を上回る速さで荒れて行きます。家から命が消えたように荒れて行きます。しかし再びそこに人が帰ってきて生活し始めると、活気が戻ってきます。皆さんも部屋を片付けたり、庭の草取りや花など植えて手入れすると、家や庭の表情が、生き生きしてくるのを経験したことがあると思います。
 考えてみればこれは不思議なことです。自然に放置すれば家は荒れてしまう。しかし人が住み始めると家に活気が戻ってくる。これこそが命の働きです。そしてこの命の働きこそが、この世界に秩序と意味を与えてくれるのです。ですから、「命の泉」とは、私たちに生きる喜びを、そしてこの世界に意味と輝きを与えてくれるものです。ではこの命はどこから来るのでしょうか。
 イエスは言われます。「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章13~14節)
 私は、敬和の三年間の学びをとおして、皆さんにこのイエスが与えてくださる水、命の水に出会って欲しいと思います。それは皆さんのなかで泉となって湧きあがり、その命を守り、皆さんの人生を絶えることなく輝かせてくれるはずだからです。