毎日の礼拝

校長のお話

2008/02/01

「猫が行方不明」

聖書:ヤコブの手紙 1章2節
「猫が行方不明」これはフランス映画のタイトルです。主人公はメイクアップアーチストのクロエという若い女性です。彼女は猫を飼っています。名前はグリグリです。クロエはパリの下町に住んでいますが、3年ぶりの夏休みが取れたので、少し親しい近所のおばちゃんに猫を預けて出かけます。
夏休みが終わって戻ってきたクロエはグリグリがしばらく前に行方不明になったと聞かされます。クロエはグリグリがいなくなったことを聞かされて、ものすごく落ち込みます。というはのクロエは、仕事も恋愛もうまくいっていませんでした。そういうこともあって自分の殻に閉じこもりがちでした。
その彼女にとって猫のグリグリは慰めでありかけがえのない存在でした。クロエはグリグリが行方不明になったことで、ますます孤独感を募らせてゆきます。
そして、気分転換ににぎやかな場所に顔を出すのですが、場の空気が読めず浮いてしまってよけいに寂しくなるばかりでした。
クロエの様子を見かねた近所の人たちが、彼女を元気にするには猫のクロエを探し出すことだと、それまであまり親しくなかった人まで一緒になって、猫探しが始まります。
アパートのドアを一つ一つたたいては、クロエを見かけなかったかと訪ねて歩く人、クロエの似顔絵を書いてそれをポスターにして街角の店に張ってもらうよう頼んで歩く人。そういう風に彼女のために猫探しを真剣にしてくれる人たちは、世間一般からしたら変な人といわれそうな人たちでした。
結局グリグリは見つかりませんでした。そしてそのために、一度は自分自身をも見失ってしまったクロエですが、猫探しを通して年齢や人種や職業など、今までは全く知らなかった人たちに関わっていくことで、彼女の頑なな心が次第にほぐれていき、結果的にクロエは自分の生き方を見つめなおしていくことを、軽やかに爽快に描いた映画です。
つい最近ですが「猫が行方不明」と似たような出来事が私の家族にもありました。タイトルをつけるなら「親猫が行方不明」です。11月の初めごろだったと思いますが、大阪の教会で働いている息子から夜遅く電話がありました。内容は生まれたての3匹の子猫をどうしたらいいというのです。眠たいこともあって言っている意味が分かりません。何回も聴きなおしてようやく分かりました。どうやら、幼稚園のホールの奥の物置の隅で、いつの間にかお腹の大きい母猫が入り込んで、子どもを3匹産んだ。それに気がついた幼稚園の先生たちが母猫を捕まえようとしてつい追い掛け回した。子猫を見つけた先生が「可愛い」といって抱き上げてしまった。追い掛け回された母猫は戻ってこないし、人間の臭いのついた子猫の子育てはしないだろう。先生たちは部屋の中に子猫を置いて置けないので、ダンボールに入れて窓の外において帰ったというわけです。
夜になって教会の3階に管理人代わりに住んでいる息子の部屋に、子猫たちの鳴き声が聞こえてきます。母親を求めているのか、あるいはお腹をすかせているのか、その鳴き声が耳についてしかたなく、布団に入っても子猫の鳴き声に耳をそばだててしまって、そして、鳴き声がか細くなって、途切れ途切れになってきたとき、息子は辛抱たまらず、子猫たちの様子を見に行ったのです。
それから息子がとった行動は、24時間営業のドンキホーテに電話をして、猫用のミルクがあるのを確かめて、自転車で片道20分の距離を走って買いに行き、3匹にスポイトでミルクを飲ませ、次の日に犬猫病院に連れて行って、診てもらい、生まれたての子猫の育て方を聞いたというのです。
私のところに電話があったのはそういう生活が始まって3日目でした。猫のために寝不足になっていると言う息子にわたしは、きついことを言いました。「育てられるわけがないやろ、いればいるほど困るで、はよ、保健所に連れて行ったらどうや」。
それに対して息子は言い返しました。「わかってるやん、そんでもしゃーないやないか、出会うてしもうたんや」。
「出会ってしまった」その一言を聞いてわたしは「ああ、こら、あかん、どうにもならん」と思いました。それがどういうきっかけであり、出会ってしまったと感じたら、もう無関係、知らん顔をすることは出来ないということです。3匹は元気に育ち、息子の部屋を走り回り、2度の予防注射も終えて、ようやく貰い手も見つかりました。3匹に子猫がやってきたために、あれこれ時間を使って寝不足になり、動物病院で定期的に見てもらう費用、そして、貰い手がいないかとあちこち探して、いろんな人に電話をしたり、直接会って頭を下げてお願いする。考えようによれば災難です。でもそれを出会いと感じるというのは、人間というのは不思議な感情をもっているわけです。
日本語で「出会う」という言葉は、交差点で車がぶつかったときに「出会い頭」という言い方をしますが、思いもかけない出来事にぶつかって、そのために方向が変わる、今までとは違う考え方をもつようになる、ということです。出会いということで言うなら、敬和学園は「出会いの学校」という言い方ができます。
そもそもみなさんはどうして敬和学園を知りましたか、どうして敬和学園に入ってきましたか。違いはそれぞれあるでしょう。親が敬和出身だから、兄姉が通っていたから、教会の人が教えてくれたから、中学で不登校になって、その関係から敬和を紹介された。病気になって学校を休みがちになって、そのために、敬和ならそういう場合も受けとめてくれると教えてくれる人がいたから。
それぞれ違いはあっても、ここにいる人は「敬和学園と出会った」わけです。
そして、38回生は3年間、「敬和で出会う」体験を重ねてきたわけです。
敬和学園の毎日は出会いの連続という言い方も出来ます。礼拝を通して神様と出会う、授業や通して他者と出会い、社会と出会う、行事を通して一緒に作り上げて行く喜びに出会う、集団と出会う、そしてそういういくつもの出会いを通して、自分自身を真正面から見詰めることができる、それを自分との出会いと呼ぶことが出来ます。
出会いのきっかけは必ずしもいいこととは限りません。むしろあって欲しくないことの方が多いのです。そういう出会いを通して「生きる力」が知らず知らずのうちについてきます。その人なりの生きるエネルギーが湧き上がってくるのです。38回のみなさんはもうすぐそれぞれの新しい進路に踏み出すことになります。そのみなさんに聖書は語っています。「私の兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」。
どんなときにもイエス・キリストの神様はあなたと共にいてくださいます。
あなたと共に歩んでくださいます。
必要な助けを備えてくださいます。