毎日の礼拝

校長のお話

2008/06/01

「スロー・フード、スロー・エデュケーション」

聖書:ペトロの手紙1 4章 7~10節
ハンバーガーショップのマクドナルド、しょっちゅう行く人、ほとんど行かない人、さまざまです。
マクドナルド、みなさんのふだんの呼び方はなんでしょうか。
ここにいるほとんどの人が「マック」でしょう。
しかし関西人のわたしは当然「マクド」です。
そのマクド、マクドナルドですが、いわゆるファースト・フードと呼ばれます。
ファーストを英語で書くと「FAST」で、意味は速度の速いです。
ファーストフードと呼ばれる理由は、注文してから出てくるのが速い、早く食べることができる、ということですが、意味として含んでいるのは、材料が均一である、大量に仕入れる、大量に作る、便利である、食べる時間が短い、値段が安いといったことです。
すべてがマニュアル化された中でつくられるのがファースト・フードの特徴です。
ファースト・フードはアメリカの合理的な考えから生まれた食事です。
そのファースト・フードの代表であるマクドナルドがヨーロッパに店を出そうとした今から30年前のことですが、それぞれの国で反発がありました。
たとえば、フランスではマクドナルドの看板の赤の地に黄色では街の景観を損ねるということで、もっと地味な色使いにするように・・・。
当時のヨーロッパでは一般的な食事時間の考えからすると、マクドナルドは受け入れられないだろう、観光客しか食べないだろうといわれました。
わたしは1970年代にフランスに留学しましたが、当時学校に通っている生徒や学生、そして会社で働いている人の多くは、昼ごはんを自宅に帰って食べるということをしていました。
それができるぐらい昼休みの時間が長かったからです。
こういう風に話しますとファース・トフードを悪者扱いにしているようですが、決してそんなことはありません。
ファースト・フードがもたらしてくれた効果というのもあります。
それはあらためて食べることの大切さ、食事をすることの意味を考えるようになったからです。
マクドナルドがイタリアのローマに初めて支店を出したのは、1986年ですが、その時、北イタリアの小さな村であるブラにスロー・フード協会というのが設立されました。
ファーストに対して、逆の言葉であるスローを使ったわけです。
ただし、スローというのは単に「のんびり食べよう」「ゆっくり食事をしよう」ということではありません。
ファースト・フードの持っている意味「大量に仕入れる、便利である、食べる時間が短い、マニュアル化されている」に対して「新鮮で地域の季節の素材を使う、代々受け継がれてきた調理法、環境にやさしい農業、家族や友人たちとの楽しい食事」という意味を持った言葉としてスロー・フードと名づけたわけです。
このスローフードの考え方はその後どんどん広がっていき、そして食事の領域を超えた考え方になってきました。
敬和学園に直接関係することで言えば、教育にもスローという考え方があります。
英語で教育はエデュケーションですが、スロー・エデュケーションという考え方の大切さが言われるようになってきました。
この場合のスローはのんびり勉強すればいい、勉強はゆっくりやればいいということでは決してありません。
ファースト・エデュケーションが「試験に合格する、テストでいい点を取るための手段を学ぶ」ということを一番と考えているのに対して、ゆるやかなペースで学習に取り組み、問題を掘り下げ、前後の脈絡をとらえて考える方法を学ぶことに時間をかける教育、じっくり勉強すること、それをスロー・エデュケーションと名づけたわけです。
スロー・エデュケーションは先ほども言いましたように、のんびりということではありません。
含んでいる意味は「穏やかさ、受容的、物静か、直感的、あわてず、辛抱強く、思慮深く、量より質」です。
敬和学園はファースト・エデュケーションの学校ではありません。
敬和学園が大切にしてきたことを当てはめてみれば、まさにスロー・エデュケーションの学校です。
試験に合格するための手段を学ぶ勉強中心ということは、自分中心に物事を考えるということです。
それに対して、敬和学園は物事を深く考える、違いを受け入れる、想像力をもった人を育てることを大切にしてきました。
ですから、こうして毎日みんなで礼拝をするわけです。
個人選択制カリキュラムにしているわけですし、授業そのものも深く考えることを中心としたものになっているのです。
他の学校のように授業時間を少しでも増やすという量を第一に考えるのではなく、あくまでも質にこだわった授業にしようと考えてきました。
そういう教育の中で、自分だけのことではなく、身近にいる他者、そして直接会うことはないかもしれない遠くの他者のことを、感性と想像力で持って考えることのできる人に育ってほしいと願っています。
それが神様のよって建てられた学校にふさわしい教育だと考えています。
先々週、わたしたちの隣の二つの国で立て続けに大きな災害が起き、たくさんの人の命が失われました。
今も救出を待っている人がいますし、救援を待っている大勢の人がいます。
わたしたちはテレビや新聞のニュースでその様子を知るわけですが、そこで、人として大切なのは、こうした痛みや苦しみをどれだけ自分のこととして直感的に感じ、自分のこととして受け入れることができるかどうかです。
テレビの画面に移っていることを見て、わぁたいへん、かわいそうで終わるのではなく、画面の外側で起こっていることを想像できる心をもつこと、新聞からは聴こえない叫びと悲しみの声を聴くことのできる魂を持つ人になってもらいたいのです。
そこから人間としての深まりと成長が始まります。
まずは宗教部が始めた救援献金にみんなで参加しましょう。
それと同時に、明日から始まる第一定期テストに真剣に取り組みましょう。