毎日の礼拝

校長のお話

2008/07/01

「砂時計」

聖書:ルカによる福音書 24章 28節~32節
新潟空港の1階のロビーに新潟の物産が展示されています。
その一つにワタトラ製作所の砂時計が展示されています。
ワタトラはカタカナです。
燕市にある新潟で唯一つ砂時計を作っている工場です。
地元ではそれほど知られていなくても、ワタトラは日本有数の、世界的レベルの砂時計の製作所です。
そういう意味で新潟と深い関係にある砂時計ですが、砂時計は時計といっても、今何時と、というように時刻を確かめるものではありません。
1分なら1分、1時間なら1時間というように、時間の経過を計るためのものです。
時間を感じるためのものといったほうがいいのかもしれません。
ガラスに入った細かい砂が細くくびれたところを通って下に落ちていくのを眺めていると、何となく気持ちが落ち着いたりします。
今上映中の映画に、砂時計が物語の中で大きな意味を持ち、タイトルもズバリ「砂時計」があります。
原作は芦原妃名子のコミックです。
離婚をした母は主人公の少女杏を連れて実家のある島根県に戻ることになります。
途中、サンドミュージアムに彼女を連れて行き、そこにある1年のときを刻む巨大な砂時計を見せてくれます。
そしてお土産として砂時計を買ってくれます。
杏と母はその砂時計を列車の窓枠に置いて眺めます。
母は杏に、砂時計の上の部分は未来、真ん中のくびれた部分は現在、そして、砂が落ちる下の部分は過去だと教えてくれます。
母の気持ちにあるのは、過去は過ぎ去ったことであり、できる限り早く忘れたいといいたかったのでしょう。
母の言葉をじっと聴いていた杏ですが、突然砂時計をひっくり返して置きなおします。
そして言いました。「こうすれば過去は未来になり、未来は過去になるね」。
この台詞は映画のクライマックスで再び使われることになる重要な言葉ですが、「過去が未来になる」は聖書が大切にしている考え方でもあるのです。
ふつう過去・現在・未来を考えるとき、一直線上で考えます。
過去が後ろ、真ん中が現在、そして未来は前にある。
ですから言葉として、過去は過ぎ去ったもの、振り返らないで前を見て、未来に向かって歩いていきましょう、というような言い方をします。
でも人間というのは厄介な生き物で、過去を忘れよう忘れようとすればするほど、そしてそれが嫌なことであればあるほど忘れられない、かえってそのことに気持ちが縛られるということがあるのです。
  ところが聖書は、過去は一本の線上の後ろ側にあるものではなく、目の前に、しかも広がりがあるもの、その過去をしっかり見つめるところに、その人の未来、希望が生まれてくると考えます。
今日の聖書に登場しているのはイエス様の2人の弟子です。
彼らはそれまでの生活を捨ててイエス様に従いました。
自分たちの不幸な生活、貧しい生活から抜け出すために、一大決心をして、いうなれば、イエスという存在に人生を掛けたのでした。
ところが、その人生を掛けたイエス様は十字架に架かって殺されてしまったのです。他の弟子たちは逃げ出しました。
2人もどうしていいかわからず、結局ところ、故郷に帰るしかなく、地元のエマオへの道を歩いていたのです。
彼らの気持ちは、イエス様との出会ったこと、そこで起こったさまざまな出来事、それらを過去のものにして、どこかに封じ込めたい、できる限り早く忘れたいということであったのです。
その彼らといつの間にか一緒に歩き始めた人がいました。
その人は彼らにエルサレムで何かあったのか、あなたたちはこれからどうするのか、といったことを尋ねました。
できるなら思い出したくないことでしたが、尋ねられるままに答えているうちにいつの間にか日が暮れ、宿屋に泊まることにして、その連れになって人に一緒にどうぞ泊まりましょう。
晩ごはんを一緒に食べましょうと誘ったわけです。
そして食事のときになって、その人がお祈りをしてパンを裂いているのを見て、その人が十字架にかけられ殺され、3日前からいなくなったイエス様だということがわかったのです。
そしてもう一つわかったのが、誰かわからないで話していたけれど、自分たちの心は燃えていたということです。
不思議だけれど、希望と勇気が湧いてきたというのです。
これからしっかり生きていこうという気持ちになったのです。
イエス様が十字架に掛けられ殺されたのは確かな過去の出来事です。
あってほしくないことでした。思い出したくないことでもあります。
けれど、そこから逃げ出さない、つまりキリストの十字架の出来事をしっかり見上げることによって、つまり過去を後ろではなく、目の前のおくことによって、不思議なことですが、希望と勇気が与えられ、これからしっかり生きていこうという気持ちになれたのです。
みなさんは自分の人生を敬和学園にかけたのです。
そして入学してきました。
しかし今、思い通りではなかったことにがっかりしている人がいるかもしれません。そこで思い出してください。
敬和学園に入学しようとしたとき「心が燃えたことを」。
そして、それでも迷いがなくならないときには、キリストの十字架を目指して歩めばいいのです。
幸いみなさんはこうして毎朝の礼拝の時間に正面にある十字架を見ることができるのです。
歩むべき道、方向が示されているということです
十字架に向かって歩む、そこに過去をムダにしない、それを生かすあなただけに与えられた道があります。