毎日の礼拝

校長のお話

2008/10/01

「足を洗う 足元を見る」

聖書: ヨハネ 13章 3~8節
女性を主人公にした映画があります。
彼女はあるテレビ局の人気リポーターです。
高級マンションに住み、ブランド物のスーツを着こなすという誰もが憧れる女性でした。しかしながら彼女はそれに満足できず、いずれ全米ネットのキャスターになろうと、そのチャンスを狙っていました。
ある日彼女は取材に出かけます。たまたま街角のインタビューをしたホームレス風の男から3つの預言を聴かされます。
1つ目はその晩のアメリカンフットボールの試合でシアトル・ホークスが19対13で勝つこと。2つ目が次の日の朝ひょうが降ること。そして3つ目が1週間後に彼女が死ぬと言うことでした。
彼女は、これが何かの番組のやらせだと取り合わなかったのですが、フットボールの試合結果とひょうが降るのが的中します。
ということは自分が死ぬこともと、とあわてます。
そのあたりから彼女は自分の生き方を見つめなおし始めるわけです。それを象徴的に表す場面があります。自分が死ぬことを考えながら歩いている時に、道路の敷石にハイヒールのかかとが引っかかって折れます。
歩けなくなった彼女はいやおうなしに自分の足元を見つめました。
するとそこに自分が成り上がるために利用してきた人たちの顔、ある意味足で踏みつけてきた人たちの顔が浮かんできたのです。しかも、その人たちは本当なら彼女に怒りや恨みの表情をみせてもおかしくないのに、どういうわけかにこやかな顔そしていました。
そして、同僚のカメラマンにしばらく前にいわれ言葉がはっきり聞こえてきました。「もし僕が1 週間で死ぬなら、友人を訪ねて思い出を作る。大事な人に、言いたくても勇気がなくて言えなかったことを言う。預言は一つの解釈だから、運命を変えれば結果も変わる」。
はっと気づいた彼女は片方の靴を脱いではだしで歩いて行きます。彼女はハイヒールのかかとが折れたために足元を見なければならなくなったのです。その足元を見ることが、大切なことに気づくきっかけになったのです。
今日の場面はイエス様が弟子たちの足を洗う場面です。「足を洗う」ことで思い浮かぶのは、時代劇で、宿に泊まることになったお客の脚を宿屋の人が拭く様子、あるいはお城から戻ってきた主人である侍の足を洗う奉公人の姿です。
目下の人が目上の人の足を洗います。ところが聖書はそれが逆です。
世の中の常識からすれば、弟子たちがイエス様の足を洗うのがふつうです。
弟子たちもそう思っていました。ですからイエス様が自分たちの足を洗われる、拭いてくれるというのはどうもいごこちがよくなかったのです。
弟子のペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」といいました。ペトロにすれば「本来ならわたしがあなたの足を洗ってさし上げるべきですのに」と言いたかったのです。
それを見透かすかのようにイエス様はいわれました。「わたしのしていることは、今あなたには分るまいが、後で、わかるようになる」。これは大事なこと、大事な言葉は後になって、そういうことだったのかと分るようになるということです。
人間は自分にとって一番大事なことが何かと言うことが、本当ならそれが最も必要な「今」わからなくて、あとから、ああそうだったのかとようやく気づくことが多いのです。
そのわたしたちに必要なことは「大事なことは後からわかる」を自覚しておくことです。後になって分ると言うことを今知っておくことが、今起こっていることが、いったいどういうことなのか、どういう意味があるのかを、考える時の力と方法になるからです。
「足を洗う」という言葉には「今までしていたよくない仕事や行為をきっぱりやめる。今まで関わっていた、世間の人が嫌うような組織や世界から抜け出る」との意味があります。キリスト教的にいえば悔い改めるということです。
悔い改めるというのは生き方を変える、考え方を変えるということです。
それが悪いと分っていてもなかなか変えることができないのがわたしたちです。自分の力でできないことを、イエス様がこんな自分の足をわざわざ洗ってくださったということ、そしてこの自分をイエス様は大切にしてくれたことを思い出すことによって、その時直面する困ったことから逃げ出さない、ごまかさない人間になることができるのです。その代表がイエス様の弟子たちです。
足を洗ってもらったことを思い出すとき、自然と目は自分の足元を見ることになります。自分の足元を見るというのは謙虚になるということです。
素直になることです。同じ足元を見るでも、それが自分の足元でなく、他の人の足元である場合、その意味は相手の弱点を利用して自分の利益をはかるということになります。
もしそうなら、それは人には分らなくても、神様は決してお許しにならないことも自覚しておく必要があります。
わたしからあることで声をかけられた人がこの中に何人もいるはずです。
それも一度や二度でなく、何度で同じことを言われた人がいます。それとは「靴」「かかと」「靴のかかとを踏むな」です。今の自分の足元はどうですか。
靴のかかとを踏んでいませんか。
もし自分のかかとを踏んでいる足元を見た人は、そこに今の自分の決して誇れない姿が映し出されていることに、決してほめられはしない生き方が出ていると、気づきましょう。
靴、かかと、と注意される時、そこに、今の自分には分らないけれど、後で分る大事なことがあるのだと受けとめることができるなら、そこにいい意味での人間的変化が始まります。
イエス様の弟子たち、映画の主人公は自分の足元を見つめることによって、生き方を大きく変えることができたのです。