毎日の礼拝

校長のお話

2008/11/01

「上を向いて歩こう」

聖書: ヨハネ 21章 4~7節
今NHKの朝の連続テレビ小説は「だんだん」というタイトルです。
京都と島根で別々に育った二人の女の子が、ふとしたきっかけで松田聖子の「赤いスイートピー」を一緒に歌ったことから、自分たちが双子であることに気づきます。そういう意味で歌が展開に大きな意味をもつ話です。
その「だんだん」で、主人公が老人ホームを尋ねた場面で「上を向いて歩こう」という曲を歌っていました。
「上を向いて歩こう」知っていますか。
今から40数年前につくられた曲です。
日本の曲で米国のヒットチャートで唯一、1位になった曲です。
歌詞は「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように、泣きながら歩く、ひとりぼっちの夜、上をむいて歩こう、にじんだ星を数えながら・・・」。
米国でなぜ「上を向いてあるこう」が受けたのかを分析した専門家がいます。
その人によれば、「上をむいて歩こう」は人を励ましているが、それが「がんばれよ」という押しつけではなということ、その人の心にそっと触れるようなやさしさと、包み込むような雰囲気があり、小さな希望が与えられた気分になる、「それでいいんだよ」というゆるされた気持にさせてくれるからだということです。
自分でも「がんばらなければ」と思っているときに、親や周りの人から「がんばれよ」と強く励まされたら、「うるさいな、わかっている」と反発したくなります。がんばろうという気持ちがしぼんでいく時もあります。
そうではなくて、「いいんだよ、1人じゃないんだよ、あなたはゆるされているんだよ、と言われたら、内側から力がわいてきて、頑張ろうという気持になる」。

「上を向いて歩こう」、これは今日の箇所で十字架の上で死んだけれど、三日後に復活したイエス・キリストに出会ったペトロの気持そのものでした。
ペトロという人はイエス・キリストの一番弟子と言われる人でした。
本人もそのことにプライドをもっていました。
ちょっと前にイエスはそのペトロに質問をしました。
もし、私に何かあったらお前はどうする。
ペトロは胸を張って答えました。
私はどこまでもあなたについて行きます。
死ねと言うならいつでも死んでみせましょう。
立派なことを言ったペトロですが、イエス様が権力者に捕まえられた時、こわくて何もできずただ突っ立っていました。
そして、あなたはイエスの弟子でしょ、と指を指された時、ますますこわくなって、私はイエスと言う人と私は関係ないと3度もしらを切ってしまったのです。
ペトロはイエス様をいとも簡単に裏切ったのです。
そして、イエス様は十字架に掛けられ死にました。
ところが、預言通りその死から復活されました。

そのイエス様が後ろめたさをもちながら故郷のガリラヤに戻って漁師をしていたペトロのところに姿を現されたのです。
こういう場合、どういうことが考えられるでしょうか。
私ならペトロに次のように言ったはずです。
「よう、ええかっこいうてくれたなああ、あなたが死ぬなら私も死にます、などとえらそぅにいうておきながら、ようも簡単に裏切ってくれたな。ゆるさんで」。
ところが、イエス様は裏切りなどまるでなかったかのようにペトロに話しかけられたのです。
イエス様のそのような態度に、ペトロはどんな気持になったでしょうか。
「この人は忘れている、助かった」と思ったでしょうか。
本当の意味でこわくなったのではないでしょうか。
ペトロがそれまで恐がっていたのは、世の中の権力です。
無実の人を十字架に掛ける権力です。
人を平気で殺す人たちです。
そういう力を恐れていました。
ところが、復活のイエス様に出会うことによって、自分が本当に恐れなければならないものが何か、どういう力かということに気づかされます。
今まで自分が恐れていた力、権力に本当の力はないということがわかったのです。

故郷に帰ったペトロは、イエス様を裏切ったという後ろめたさのために下を向いて生活していました。
そのペトロは復活のイエス様に出会い、「ゆるされている」ことを確信しました。ゆるされていることを知って、ペトロの中で変わったことがあります。
それは、それまで目をそらそうとしたり、ごまかそうとしてきた自分の過ちや弱さをきびしく見つめることのできる人間になったということです。
ゆるされていることを知って、体の中から生きる力が湧きあがると同時にうれし涙をながしそうになりました。
その涙をこらえるために、彼は自然と上を向かなければならなくなったのです。
ペトロはイエス様の怖さの中にあるやさしさを思い出すたびに、涙が出たことでしょう。
その涙をこらえるために上を向いたら、涙ににじんだその先に、たくさんの星がありました。
罪のためにうつむきながら生きようとしていた人が、ゆるされた喜びの涙をこらえるために、顔をしっかりあげて歩く人に変えられたのです。
顔をしっかり上げて歩くというのは堂々と生きるということです。
積極的に取り組むということです。

復活のイエス様のゆるしは、今を生きている私たちにも向けられています。
自分の力で捨てることができない弱さを、復活のイエスが共に背負ってくださっていることに気づき、それを喜ぶなら、私たちもまた、たとえ重い物を背負っていても、どのようなときにも、胸を張って、上を向いて生きていくことができるようになれるのです。
今週も自分の課題にしっかり取り組んでいきましょう。
取り組む力が復活のキリストから与えられていることに気づきましょう。