毎日の礼拝

校長のお話

2008/12/01

「しあわせのかおり」

聖書: ヨハネによる福音書 3章 16節
最近公開された映画に「しあわせのかおり」というのがあります。
「しあわせのかおり」は石川県の金沢にある一軒の小さな中華料理店「小上海飯店」の主人である年老いた中国人の料理人王さんとその弟子になった貴子さんという若い女性を中心に物語が展開していきます。
原作は監督でもある三原光尋の小説「しあわせのかおり」をベースにしています。小説「しあわせのかおり」は5つの物語で構成されています。
そしてそれぞれのタイトルは「蟹シュウマイ」「包子」「坦々麺」「上海蟹」「トンポーロー」という中華料理の名前がついていて、それぞれその料理がじつにおいしそうに描写されていて、この本を読むと、中華料理のおいしそうなかおりがしてきて、思わず食べたい、つくってみたいという気になります。
そして映画になった部分は「蟹シュウマイ」の話がアレンジされたものです。
小説「しあわせのかおり」の2つ目の物語はタイトルが「包子」パオズです。
包む子とかいてパオズと読むのですが、これは一般的に「肉まん」「豚まん」と呼んでいる食べ物の正式な呼び名です。
コンビニにもいろいろな種類の肉まんが売られていますが、パオズの種類はそんな程度ではありません。
主人公は神戸出身で東京の芸大に入ったばかりの睦美です。
彼女は大学に入って人生で初めての恋愛をするのですが、すぐに失恋します。
睦美が小さい時から自分をどのような人間と考えているかがわかる箇所があります。
「睦美は子どもの頃より、これだけは確信があった。
それは、自分は、何一つとっても人より抜きん出ているところはない。という確信。
あの頃、母の手鏡を見ては、アイドルの写真と比較しては、どってことない容姿を確認し、勉強をとっても、スポーツをとっても、どれをとっても自分は、ごくごく平凡な成績で、注目を浴びるような存在でないことはわかっていた」。

その睦美が大学に入って初めて恋愛を経験するのですが、その喜びもつかの間、相手から、君は面白くない人間だとの言葉で別れを告げられてしまいます。
この失恋によって睦美はますます自信を失います。
彼女が自分の存在の意味は何だろうと悩む箇所で次のように言っています。
「このアパートの2階で、わたしは存在している。わたしの存在に何の意味があるのか。
もし、神という創造主がいたら、ちょっと出てきて教えて欲しい。わたしが存在する理由を」。
失恋をした睦美がまず考えたこと、それは時間を巻戻したいということでした。時間を戻せたら、フランス語の授業の時に、声をかけられ誘われても、無視することができるのに、ということでした。
彼女は過去を振り返り悔やんでばかりいました。
けれどそういうことばかり考えていてもどうにもならない、と思うようになります。
そして突然始めたことがあります。
それは小さい時に祖母から作り方を叩き込まれたパオズをさまざまにアレンジしながら作るということでした。
たまたまキッチンにあった小麦粉に水を入れて混ぜ、そこにイースト菌や少量の塩、砂糖を入れて、一心不乱にこね始めます。
その表情はまるで何かに取り付かれたような真剣な表情でした。
彼女が次々に作るパオズの数は生半可なものではありませんでした。
作り続けたために部屋中パオズだらけになります。
心配して尋ねて来てくれた友人は、異常な量のパオズを見てますます心配になりました。
睦美のパオズ作りはそれからも続きますが、パオズ作りを通して彼女は自分を真正面から見てくれる人たちと出会います。
その出会いを通して、睦美は自分自身を受け入れることができるようになっていきます。
ラストの箇所で睦美は次のように言います。
「でも、ちゃんと向かい合っていこう、それがわたしなんだし」。

睦美はたまたま小さい時に教えられたパオズ作りを通して、自分をしっかりと受け入れることが出来るようになろう、と積極的な生き始めます。
敬和学園で学ぶということは、睦美がパオズ作りを通して行ったことを、自分探しということを通して行うことです。
みなさんは自分探しを通して、自分としっかり向き合うことのできるチャンスをもらっているのです。
睦美は自分の存在の意味を、もし神様がいるなら教えて欲しい、と考えましたが、はなから神さまなどいない、だから誰も自分の存在の意味など教えてくれないと考えていました。
そこが敬和学園で学ぶみなさんと決定的に違う点です。
キリスト教の学校である敬和学園で学ぶということは、この世界に誰一人として意味のない存在はいない、誰一人として不必要な人はいない、一人ひとりに必ずその人だけに与えられた存在の意味があることを知ることです。
それを神さまが与えてくださっていることを知るのです。
神さまが存在の意味を与えてくださるというのは、愛してくださっているということです。
その愛し方も中途半端ではありません。
イエス様を十字架につけて死なせるほど、なお、大切な存在としてくださっているということです。
3年間の自分探しを通して、自分が神様から愛されている存在であるしっかり心の内に刻み込むことが赦されているのです。
そういう意味で、今の自分が決定的に幸せな環境の中に生きていることに気づかなければなりません。
生きるということはあれこれ悩むことでもありますが、それ以上の幸せな中に生きていることにしっかり気づきましょう。