自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2022/01/17
校長 小田中 肇
【聖書:マタイによる福音書5章43-44節】
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。
皆さんは第一印象で、その人がどういう人かを判断しますか。それとも少し話をしたり付き合ってからしますか。
それぞれだと思いますが、一般には長く付き合っていると何となくその人のことがわかってきます。この人ならこういう時にこういう反応をするだろう、ということが大体予想がつくようになってきます。
もちろん外れる場合もありますが、考えてみればこれは不思議なことです。人間には人を理解する力が備わっているのです。
そして相手に自分をわかってもらえたときは、誰もが嬉しく感じます。相手を理解すること、そして相手に理解してもらうこと、これは人間関係で大切なことです。
ですから私たちは自分を理解してくれる人を大事にしなければなりません。
そのことで私は高校生のとき後悔したことがあります。それは高校1年の夏休みのことです。
私は高校入学後すぐに水泳部に入部し、楽しく部活動に参加していました。ところが楽しみすぎて勉強をしなかったため1学期の成績がひどいものとなりました。
私は夏休み、勉強に専念するため、予定されていた水泳部の合宿を欠席することにしました。新学期になって友達に合宿はどうだったか聞くと、本当に楽しかったと言います。
そして先輩たちが何か面白いことがあると、「ここに小田中がいればなあ、小田中だったらこう言うだろうな」と言っていたよ、と教えてくれました。私は合宿を欠席したことを少し後悔しました。自分をわかってくれている人たちがそこにはいた、そう思えたからです。
しかしその後部活とは距離ができてしまい、あまり練習に参加しなくなってしまいました。
あの時もし合宿に参加していれば、私の高校生活はきっと全く違ったものになっていたでしょう。その時は分かりませんでしたが、今になると合宿を欠席して勉強するよりも、水泳部の仲間たちと楽しく過ごすことの方がかけがえのない大事な経験だということが分ります。
さて話は変わりますが、役者さん、俳優さんにとって、演じる人物がどういう人かを理解することが重要だといいます。そして演じる人物を自分なりに理解することを「役作り」と言うそうです。
先日、俳優の滝田栄さんという方のお話をラジオで聞きました。皆さんはご存じない方だと思いますが、以前NHKの大河ドラマで徳川家康を演じた俳優さんです。
徳川家康という名前は聞いたことがあると思います。長く続いた戦国時代に終止符を打ち、その後250年続く徳川幕府を開いた戦国武将です。
滝田さんはいくら台本を読んでも徳川家康のイメージがつかめない、どういう人物かさっぱり分からなかったと言います。「これでは家康を、どう演じてよいのか分からない」そう思い追い詰められます。
家康は4歳から17歳まで13年間、今川義元の人質となっていたのですが、そのとき林泉寺というお寺に預けられていました。
このお寺での人質としての経験が、家康の人格形成に何か影響を与えているはずだ、このお寺に行けば役作りのヒントが得られるかもしれない、滝田さんはそう思って電話をします。
ところが林泉寺はお坊さんの指導者を養成するためのお寺で、厳しい修行をしているところでした。だから一般の方は受け入れていない、といって断られます。
しかし滝田さんはそれでも何とかお願いして行くことが許されました。
そこではいくつかのヒントが与えられました。しかし「これだ!」という決定的なものはつかめず、もう帰ろうかと諦めかけていたそうです。そのときある住職に声をかけられます。
「少し肩の力を抜いて、今日は、私のところにお茶でも飲みに来なさい。」
住職はとても優しい老人でした。住職は涅槃図(ねはんず)を見せてくれます。涅槃図とはお釈迦様が亡くなったときの様子を描いた絵です。
静かに横たわるお釈迦様の周りでは、お弟子さんだけではなく、色々な人が泣いています。そして人間だけではなく、ウサギや鹿や鳥など生きとし生けるものすべてが涙を流しています。
住職は滝田さんに尋ねます。「なぜ、お釈迦様が亡くなった時、生きとし生けるものが涙を流したかわかるか。」
滝田さんは答えます。「お釈迦様ほどの方であれば、みんな悲しかったのだと思います。」
住職は言われます。「そのとおりだ。弱肉強食のこの世の中で、お釈迦様がはじめて、みんなが幸せに生きるための道を示してくださった。だからみんなお釈迦様が亡くなったとき悲しくて、こんなに涙を流したのだ。」
そして次のように言われました。「家康がこの寺で何か学んだとしたら、そのことしかない。」
この住職の言葉に、滝田さんは、「これだ!」と思ったそうです。家康の魂の核心に触れた、もう大丈夫だ、これで、どんな家康でも演じることができる、そう確信したそうです。
戦国時代という弱肉強食の時代を終わらせ、みんなが幸せに生きられる世の中を作りたい、家康はそのような願いをもったに違いない、と。
さて人の心の核心にあるものを、私たちは「人格」とよびます。人格に触れるとき、人はその人を理解するのです。
私たち一人ひとりに人格はそなわっています。滝田さんは涅槃図を見せられた時、家康の人格に触れる経験をしました。
私はこの滝田さんの話を聞いた時、果たしてイエス・キリストの人格に中心にあるものは何だろう、自分はそれに触れているだろうか、と思いました。
私は聖書の福音書を読み返してみました。そして今日の聖書の言葉こそがイエスの人格の中心にあるものを表しているのではないか、と思いました。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
この言葉を聞いた当時の人は、誰でも驚いたと思います。敵のために祈ることなどできるわけがないと思うからです。それは今も変わりません。
しかし、イエスはさらに続けます。
「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。」
私たち普通の人間に、イエスは天の神様と同じように、人に分け隔てのない完全な者となりなさい、と言っているのです。これはすごい言葉です。
このように大きな願いをもって、イエスはこの世界を生きました。そして、この願いこそが、イエスの人格の中心にあったものではないでしょうか。
私たちもその恵みをおぼえて、今日の一日をともに歩むものでありたいと願います。