お知らせ

お知らせ

2021/08/31

今週の校長の話(2021.8.31)「自分探しの敬和学園で人を、自分を、好きになる」

校長 小田中 肇

 

【聖書:マタイによる福音書18章12~14節】

「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、

 九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を探しに行かないだろうか。」

 

クラスの自己紹介のなかに、よく、好きな食べ物と苦手な食べ物を回答するものがあります。以前、あるクラス全員の回答を教室に貼りだしてあるのを興味深く読みました。

そのとき苦手な食べ物に思わず注目しました。グリーンピースやシイタケが苦手な人が意外と多いのには、なぜだろうと不思議に思いました。

私が高校生の頃とは全く違う結果だからです。昔はピーマンが苦手な人が多かったのですが、今はそれほどでもないようです。時代によって、食べ物の好き嫌いも変わるということに、あらためて気がつきました。

ちなみに私は子供の頃、「しじみ貝」が苦手でしたが、大人になったら平気になりました。

 

動物の場合でも、例えば、猫好きの人にとっては、猫が苦手な人がいること自体、不思議なことでしょう。蝶を気味が悪いといって忌み嫌う人を私は知っています。

世の中には色々な人がいるものです。

ところでグリーンピースが嫌いだといって、グリーンピースが地球から無くなればいいと思う人はいないと思います。グリーンピースが好きな人もたくさんいます。そもそも自分の好き嫌いで、相手の存在を否定することはできません。

 

では、人を好きになるとはどういうことでしょうか。誰にでも、好きな人がいれば、苦手な人、嫌いな人がいるものです。「一目ぼれ」という言葉がありますが、一目見てその人を好きになることもあります。

反対に、初対面で、この人とは合わないと思う人もいます。そのような相手を好きになることは難しいことです。まして自分にいやなことを言ったりする人を好きになることなどあるのでしょうか。

 

敬和学園の生活では、さまざまな機会に、相手の存在を認めることの大切さを学びます。たとえば学校行事です。そこでは、一人ひとりが役割をもちます。

全体をまとめるリーダーは、自分の力だけで行事ができたのではなく、一人ひとりの力が合わさってできたことを実感します。彼らは必ず最後に、みんなのおかげでやり遂げることができた、と感謝の言葉を伝えます。それは彼らの正直な感想です。

 

つまり自分と合わない人、苦手な人もいたかもしれません。それでも、協力して一つのことをやり遂げることができたのは、その人たちも含めて、全員の力、一人ひとりの存在のおかげだ、ということに気がついたのです。

嫌いだった人が、かけがえのない存在へと変わっている。そう感じられる瞬間を経験しているのです。

行事だけではありません。私たちは、様々な場面で、思わぬ人に助けられたり、逆に、自分が人の助けになったりすることを経験しているはずです。

 

自分の好き嫌いを超えて、相手の人格を認めることを、キリスト教では「愛」とよびます。それは、自分の好き嫌いという枠を超えて、相手をかけがえのない存在として認めることです。

敬和の三年間は、この「愛」を学ぶための三年間と言えます。そしてこのように人を愛することができるとき、ありのままの自分を受け入れることもできるようになるのです。

 

さて、学校は一般に「同じであること」が求められます。敬和学園はそれに対して「一人になること」を大切にします。この毎朝の礼拝も、そのひとつです。

 

聖書に「一匹の羊のたとえ」という有名なお話があります。少し紹介します。

ある時、イエスは弟子たちに尋ねます。

「もし百匹の羊のうち、一匹が群れから迷い出たとすれば、どうするだろうか。羊飼いは九十九匹を野原に残して、迷い出た一匹の羊を必死に捜しまわらないだろうか。そして、もし、それを見つけたなら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。これら小さな者が一人でも滅ぶことは、あなた方の天の父の御心(みこころ)ではない」イエスはこのように告げます。

 

いろいろ考えさせられるお話ですが、私は、この一匹の羊が、なぜ集団から迷い出たのかが気になります。

この羊は、集団を離れて自分の人生を生きてみたいと思ったのではないでしょうか。九十九匹に合わせるのではなく、自分らしく生きてみたい、そう思ったのです。羊の自分探しです。

思春期を生きる高校生の皆さんには、この羊の気持ちがわかるのではないでしょうか。そして羊飼いは、必死に迷い出た一匹を捜し求めます。

敬和学園では、一人になることは恥ずかしいことではありません。この一匹の羊こそ、自分探しをする、私たち一人ひとりのことだからです。

神様の愛はこの一匹に注がれます。

 

一匹の羊が群れにもどったとき、羊飼いと一緒に九十九匹の羊たちも、大きな喜びに包まれたことでしょう。なぜなら、九十九匹の羊たちも、それぞれが、この一匹の羊と同じような迷いの経験をどこかでしているはずだからです。

一匹の羊と九十九匹の羊たち、それは敬和生一人ひとりのようにも思えてきます。

 

敬和学園では、それぞれが自分探しをする学校であって欲しいと思います。それは、本当の愛を学ぶために必要なことだからです。

そして、そのような一人ひとりに注がれる神様の愛に応えて、今日の一日、共に歩む者でありたいと願います。