お知らせ

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2021/07/05

今週の校長の話(2021.7.5)「命をつなぐ」

校長 小田中 肇

【聖書:ルカによる福音書19章5-6節】

イエスはその場所に来ると上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひ、あなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

 

 

今年の5月中旬にアメリカで17年セミの大発生がありました。ニュースで見た人もいると思いますが、メリーランド州などアメリカ東部の15州で、数十億匹のセミが一斉に現れたのです。17年セミとは、17年ごとに地上に現れるセミです。

このセミの幼虫は、17年間、地下30㎝のところに閉じこもり、木の根から樹液を吸いながらひっそりと成長します。そして17年後、一斉に地上に現れ、殻を脱ぎ捨て、空に飛び立ちます。

セミたちが、どのようなメカニズムで17年を数えているかはまだ分かっていないそうです。しかし、この17年であることには理由があると言います。つまり、16でも18でもなく、なぜ17年なのか、ということです。

 

皆さんは数学の授業で、素数という数字について習ったことがあると思います。素数とは1と自分自身以外に約数を持たない数です。

例えば7は1と7以外の数で割り切れませんから素数です。6は1と6以外に、2でも3でも割り切れますから素数ではありません。

素数を順に上げると{ 2,3,5,7,11,13,17,19,23・・・}と続きます。17は素数です。

セミは17が素数であることを知っていると言うのです。どういうことでしょうか。

 

アメリカには17年セミのほかに、13年セミというセミがいるそうです。これらのセミの寿命はそれぞれ17年と13年。どちらも最後の1年になると地上に現れ、数十万匹のセミが、森の中に飛び立ちます。

森中を鳴き交わし、オスとメスは互いに相手を求め、つがいを作ります。そして卵を産み、6週間後には死にます。森は再び沈黙に包まれ、そのまま17年が過ぎます。

 

なぜ、この同じ森に住むセミの寿命が、17と13という素数なのでしょうか。生物学的には証明されていませんが、次のように考えられています。

この2種類のセミが同時に森に現れるのが、何年毎になるか計算してみます。そのためには13と17の最小公倍数を求めればよいのですが、両方とも素数の場合、掛け合わせて13 ×17=221年となります。

もし仮に、寿命が素数ではなく12年と18年だとしてみます。

すると12と18の最小公倍数は36ですから36年毎に現れることになります。221年と36年とでは大きな違いです。

 

なるべく同時に森に現れない方が、互いに競合しません。寿命が素数の方が、両方にとって都合がよいわけです。

気の遠くなるほど長い進化の歴史が、セミの寿命をそのように定めたのでしょう。それにしても不思議な話です。

 

17年といえば、高校生の皆さんの年齢に近い長さです。セミたちは、その間、ずっと地下で成長を続けていたのです。

そして定められた時が来て、一斉に地上に現れ、光のなかへと飛び立ちます。目的はただ一つ、命をつなぐためです。

地上で生きられるのはわずか6週間。17年と比べてあまりに短すぎます。しかも全てのセミが命をつなぐとは限りません。多くは鳥たちに食べられたり、相手を見つけることができずに寿命を終えるものもいます。

 

私たち一人一人には、例外なく、生物学上の両親がいます。先祖をずっと過去に遡って行けば、地球に生命が誕生した時にたどり着きます。

私たちは、数億年をかけて、さまざまな生物が命をつないだ結果、ここに人間として生まれてきたのです。それまでには数えきれないほどの出会いと別れがあったことでしょう。

 

私には孫が3人います。コロナのために1年以上会っていませんが、長女は、今年、小学校2年生、次男は来年1年生です。3男は3歳になります。

孫たちの成長を見るとき、あらためて命の不思議を感じます。生物学によっては、説明できない不思議と謎が、生命の営みにはたくさんあるからです。それは神の創造としか言えない何かを感じさせます。

 

それでは、私たちは何のためにこの世に生まれて来るのでしょうか。セミたちのように、子孫を残すためでしょうか。

もちろん、それは生物として必要なことだし、また、人として豊かな人生を送るために大事なことです。

しかし、それだけではないと思います。それ以上の意味や目的が人間の命には与えられていると思うからです。

 

ところで、聖書の神様は、ある時、突然、その人の人生に現れその人の生き方を変えてしまいます。聖書にはそのような経験が数多く記録されています。

 

今日はザアカイという人の経験を紹介したいと思います。ザアカイは徴税人の頭でした。当時、徴税人はローマの手先、民衆の裏切り者と見なされ、人々から軽蔑されていました。

 

あるときザアカイは、イエスという人が町に来ると聞いて、どんな人か見てみたいと思って出かけます。

自分がみんなから嫌われていることを知っているので、人から離れ、木に登って上から眺めていました。そこにイエス一行が通りかかります。

すると、なんとイエスが木を見上げて、木の上のザアカイに呼びかけます。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日、私はおまえの家に泊まりたい。」それを聞いたザアカイは、喜んでイエスを迎え入れたというお話です。 

 

何故、イエスがザアカイに呼びかけたのか、その理由はどこにも書かれていません。出会いに理由はないからです。あるのはイエスのザアカイに対する愛だけです。

 

ザアカイは自分がみんなから嫌われているのをよく知っていました。だから木の上の自分に、わざわざ声をかけてくれたことが、信じられないほど嬉しかったのです。

しかも、ここでイエスは、ザアカイに声をかける以外、何もしていません。病気をなおしたり、何か奇跡を行ったりしていないのです。

イエスの呼びかけ、その言葉が孤独なザアカイを励まし、彼の生き方を変えて行ったのです。

 

新しい命が、イエスの言葉をとおしてザアカイの中で目覚めたのです。ザアカイは自分の財産の半分を、生活の困っている貧しい人々に分け与えることを決意します。

それは神の愛としか呼ぶことのできない出来事でした。

 

これはザアカイ一人の経験ではありません。新しい命と出会い、神様の愛によって、私たちも互いに愛し合うこと、それこそが聖書の伝える、私たち人間の命のバトンのつなぎ方です。

その恵みを覚えて、今日の一日、共に歩むものでありたいと願います。

 

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