お知らせ

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2021/06/21

今週の校長の話(2021.6.21)「自由について」

校長 小田中 肇

【聖書:旧約聖書 出エジプト記3章9-10節】

見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。

 

先週、教育実習生の世界史の研究授業を見学に行ったところ、次のようなテーマで話し合いをしていました。

「なぜ、現代の日本には、奴隷制がないのだろうか」

古代ギリシアは奴隷制が当たり前の時代だったのに、なぜ現代、それがないのかを考えるというものです。面白いテーマだと思いました。

 

各グループから、次のような理由が、挙げられました。

「日本では法律によって基本的人権が尊重されているから」

「AIなどの科学技術が進歩したから」

「労働者が奴隷の代わりに働くから」

「貧富の差があまりなくなったから」などです。

どれも一理あると思いました。皆さんはどう思うでしょうか。

 

私は、授業を見ていて世界から奴隷制がなくなって本当によかった、と思いました。

奴隷に認められないものは、個人の「自由」です。相手の自由を認めないのは、相手の人格を認めないことと同じです。人格を認めないことは、相手を人間としてではなく、都合よく利用するための道具としか見なさないことです。

ですから相手の自由を認めることは、人間としての尊厳を認めることに通じます。

 

先日、行われたフェスティバルでは、敬和学園に、自由の風が吹き渡るのを感じました。誰かに強制されるのではなく、自分たちがやりたいからやる。敬和生、一人ひとりが主人公でした。

敬和学園は、これからも自由を大切にする学校でなければならない、あらためてそう思いました。

 

ところで、最近、東南アジアのミャンマーという国で起きていることを、皆さん、ご存じでしょうか。今年の2月、軍事クーデターが起きました。国軍が政権を握ったのです。

ミャンマーはもともと、国軍が強い権力をもっていましたが、2015年の選挙で国民民主連盟(NLD)が政権をとり、民主化されました。軍は自分たちの権限が失われて行くことに対する反発として、軍事クーデターを起こしたのです。

 

それに対して、すぐ市民による抗議運動が起きました。しかし軍はそれを徹底的に弾圧し、すでに、子供を含む800人以上が犠牲になったと言います。それは今も続いています。

抗議運動の主役として注目されたのがZ世代と呼ばれる若者たちです。

1990年代の半ば以降に生まれた人たちで、SNSなど通信の自由化の流れを享受した、デジタルネイティブと呼ばれる世代です。

 

ビョーさんという、デモに参加している若者の言葉を紹介します。

デモに参加して怖くないのか、という質問に対し、「もちろん銃は怖いけど、自由を失う方がもっと怖い」。

質問した方は、ビョーさんの言葉について次のように言っています。

「その言葉に尽きると思いました。自分たちが選挙で示した民意が無駄になってしまうだけでなく、自分らしくいられる社会を歪められるのが耐えがたい、という思いが、彼らをデモの最前線に駆り立てているのだと思います。」

日本と同じアジアの国で、命がけで自由を守ろうとしている若者たちがいることに、私たちも目を向けなければならないと思います。

 

日本も、74年前、戦争に負けるまで、10年以上の間、軍国主義の国でした。個人の自由は大幅に制限され、国民は国のために戦うことが求められました。戦争に反対することを主張すれば、すぐに捕まりました。ですから、私たちにとってもミャンマーのことは他人事ではありません。

 

日本では、18歳以上の高校生に選挙権が与えられます。皆さんも、ぜひ、国や政治の在り方についてよく学び、自分なりの考えをもつようにして欲しいと思います。

 

それでは、聖書は、自由についてどのように考えるのでしょうか。

今日の聖書、出エジプト記は、モーセに率いられて、イスラエルの人々がエジプトから脱出する出来事を描いています。イスラエルの人々はエジプトで奴隷として働いていました。

神様はモーセという人物を選び、次のように告げます。

 

「わたしはイスラエルの人々の叫び声と、彼らを圧迫するエジプトの有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 

神様は、人間が奴隷として生きてはいけないと考えたのです。人間は、自由な存在として、神様にのみ仕える者として創られたからです。

「神を神として、それ以外の存在を神としてはいけない。」聖書は繰り返し述べます。

 

ところが、人間は、この神様から与えられた自由というものに耐えられず、自らそれを手放してしまうことがあります。自由であるとは、自分の生き方を自分で考えなければならないことです。

それに対して、奴隷は、何をするべきかを考えないで済みます。与えられた命令だけをこなせばよいからです。ですから奴隷の方が、楽でいいと思ってしまうのです。

 

今もそのような人はたくさんいます。何かの中毒の人は、皆、その奴隷です。

薬物中毒、ゲーム依存、お金もうけばかり考えている人はお金の奴隷です。自分から進んで権力者の奴隷になる人もたくさんいます。

残念ながら、このような人は特別ではなく、誰にでもそのような傾向が大なり小なりあります。

出エジプト記でも、イスラエルの人々の中には、奴隷から解放されることを嫌がる人たちがいました。彼らは「奴隷の方がよかった、」と何度もつぶやきます。

 

しかし、神様は迷うことなく、出エジプトを成し遂げます。ここで大事なことは、このエジプトからの脱出、奴隷からの解放は、人間が自分の力で勝ち取ったものではない、ということです。

それは最初から最後まで、すべて神様の御業が成し遂げてくださったものだったのです。

そこには、私たち一人ひとりが、何者にも支配されず、自由なものとして生きて欲しいという、神様の願いが込められているのです。

 

その恵みに感謝して、今日の一日を共に歩むものでありたいと願います。

(6月19日(土)春のオープンスクールより)