自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2021/05/24
校長 小田中 肇
【ヨハネによる福音書12章24節 讃美歌365番】
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
先週は定期テストと全校労作がありました。それぞれ、無事、取り組むことができたでしょうか。雨の中、一生懸命、働く1年生を見ながら、私は一年前のことを思い出しました。
一年前はまだ休校期間でした。第一定期も全校労作も全て中止でした。今年の全校労作は雨で大変でしたが、それでも実施できて、去年よりはよかったと思います。
新型コロナは、一つ、大事な教訓を私たちに与えてくれました。
それは、私たちが「日常」の大切さに、気づいたということです。
普通に学校に来て、全校そろってチャペルで礼拝を行うこと、友達と楽しくおしゃべりしながらランチを食べること、学校行事を例年通りに行えること、休みの日には、自由に外出して、友達と思いっきり笑いあえることなど、数え上げればきりがありません。
これらは2年前までは、特別のことではなく、私たちの「日常」でした。
「日常」とは水や空気、太陽からの光に似ています。これらがなければ、どんな生物も生きていけません。その一つでも失われれば、人類は滅びます。にもかかわらず、それらはあって、当たり前のものと考えがちです。
「日常」とは、それが失われて初めて、そのありがたみが分るものなのかもしれません。失われるまでは、その意味に気づかない、今回も失われてみて初めて、日本中、いえ世界中が苦しみました。
皆さんのなかにも、親しい人との別れ、または、かわいがっていたペットなど、生き物との悲しい別れを経験したことのある人は、たくさんいると思います。
会えなくなって初めて、その人、またはその生き物と何気なくすごした毎日が、かけがえのないものであったことが分ります。一緒にすごした日常の意味に、あらためて気づかされます。
私は子供の頃、「親のありがたみは、親を亡くして初めてわかるものだ」という言葉を、誰かが言うのを聞いたことがあります。
そんなものかな、と思って聞いていましたが、実際に親を亡くした時、この言葉は本当だと思いました。
どんなに科学技術が発達しても、人間は、このように愚かな存在です。
目先のものに心を奪われ、本当に大切なものに、なかなか気が付かないのです。
さて、今日は「安全の日」です。災害や事故に対する意識を高めるための日です。
この日を敬和が「安全の日」と定めたのには理由があります。
1973年、今から48年前の5月26日、Kさんという生徒が事故で亡くなりました。
この事故を忘れないために、この日を「安全の日」と定め、毎年、防災避難訓練を行うことにしているのです。
Kさんは1年生の寮生でした。入学して2か月足らずです。
この日は、第一定期テストが終わった日で、夕食後、何人かでグラウンドでサッカーをしていました。
Kさんのお母さんは、この日の午後、電話をして、「試験も済んだし、土曜日だから、帰らないの」、と聞いたところ、Kさんは「帰んないよ、家に帰るよりも、寮にいた方が楽しいもん」と答えたそうです。
これが親子の最後の会話になりました。
Kさんはゴールキーパーをしていました。相手方に攻め込んでいるとき、つい退屈になったのでしょうか。ゴールポストに飛びつきました。
その現場を見ていた人はいませんでしたが、下敷きとなって、仰向けに倒れているのが発見されました。
すぐに病院に救急車で運ばれましたが、2日後、母親の徹夜の看病にもかかわらず、亡くなりました。
この時、敬和学園は創立からまだ6年目です。
どれほど、学校全体が、深い悲しみに包まれたかは想像を絶します。
特に寮では、Kさんの死が知らされると、寮生全員が自発的にホールに集まって祈祷会(お祈りの会)を開いたといいます。
その時のことを太田俊雄校長は次のように記しています。
「祈祷会に出席して、私が痛感したことの一つは、彼らの心の中に『生命の尊厳』に対する目ざめが体験されつつある、という実感であった。この体験は、K君が、自分の死を通して教えてくれた、最大の教訓ではなかろうか?ある生徒はむせび泣きながら次のように祈った、K君、われわれは与えられる一日、一日の命を大切に生きます・・・」
このように当時のことを記しています。
今日の聖書です。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
これはイエスが、ご自分の十字架の死を意識して、弟子たちに語った言葉です。
このとき、弟子たちには、この言葉の意味がまだ分かりませんでした。
イエスの死によって、初めて、弟子たちは、その意味を理解します。
イエスと共にすごした、楽しかった日常の意味に気づきます。
イエスこそが、世の救い主であること、自分たちにはそれまで見えていなかったイエスの本当の姿に彼らは目ざめます。
イエスは、ご自身の死を通して、私たちに新しい命を授けてくださいました。
それは私たち一人ひとりが、与えられた人生において、多くの実、豊かな実を結ぶためです。
今日の一日、私たちも、それぞれの命を大切に、与えられた日常を精一杯共に生きる者でありたいと願います。