自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
校長 小田中 肇
54回生の皆さん、ご入学おめでとうございます。このようにして、入学祝福礼拝を行うことのできることを、大変、嬉しく思います。敬和学園のことを、よく「自分探しの学校」と言います。今日は、この「自分探し」という言葉について、少しお話したいと思います。
発明と発見
先日、読んだある本の中に、江崎玲於奈という物理学者のお話が紹介されていました。江崎玲於奈さんは、1973年に、江崎ダイオードの発見によって、日本人として4人目のノーベル物理学賞を受賞された方です。江崎先生は、よく次のような質問をされるといいます。「江崎ダイオードというのは、発明なのか、発見なのか。」江崎先生は、次のように説明されます。「これは発見であって発明ではない。この点を明確にしたい。発明と発見は大きく違うものであって、自分の功績は発見である。」発明と発見、どう違うのでしょうか。
発明とは何か新しいものを、人の創意工夫によって作りだすことです。それに対して発見とは、既にそこにあるもの、そこに存在しているものを探し出し、明らかにすることです。その発見が、ノーベル物理学賞の受賞につながった。先生は、自然科学の研究で大切なのは、自然のなかに隠されている物質や法則を発見することである、そのように言われているように思いました。
私は、数学の教員ですが、確かに数学の様々な公式も、発明というよりも発見といった方がよい気がします。因数分解や二次方程式の解の公式も、昔、ある数学者が発見したものです。このことは、他の様々な分野においても言えることかもしれません。
たとえば、作曲家が今まで聞いたことのない心奪われるようなメロディーを作曲したとします。その時、作曲家は、そのメロディーを自分が作ったとは思わないのではないでしょうか。むしろ、こんなにきれいなメロディーが、この世界、この宇宙にはある、今、自分は初めて、そのメロディーと出会った、そのように感じるのではないでしょうか。
自分探しの旅
ところで、私たちの「自分探し」もこれと同じことが言えると思います。つまり、私たちにとって探すべき自分はすでに存在している、ただそれがどこにあるのか、それがどのような姿をしているのかはまだ分からない。「自分探し」とは、新しい自分を作り出すことではなく、既に存在する自分を、あらためて発見することです。重要なのは発明ではなく発見だ、ということが、ここでも言えると思います。
ところで、自分探しが、既にあるものを見つけるだけだったら、簡単だ、と思うかもしれません。しかし、それは間違いです。
大きな喜びへの道
ここで、この3月に卒業した、ある3年生の文章を紹介します。その生徒は入学当初、特にやりたいことはなく、いつも楽な道を選択していたと言います。けれど、この楽な道を選択していた生き方が、実は、自分を苦しめていたということに気づきます。きっかけは1年生の時のフェスティバルで3年生の総合チーフの姿を見たときでした。
「その姿は決して楽しそうではありませんでした。思うようにいかない毎日に苦しみ、フェスティバルが近づくにつれ、泣く回数が増えていったのです。私は人の葛藤や苦労の経過を、こんなに近くで見たのは初めてでした。それと同時に、その先輩の姿は私の目に素晴らしく、輝いて映りました。」
さらに続けます。「今まで自分が通ることのなかった『困難が伴う道』をあえて選択してみよう、そう私は決心しました。苦労しながら成長し、その先にある大きな喜びを感じてみたくなったのです。」この生徒は、2年後、総合チーフとなりその役割を見事にやり抜きました。
「私は気づきました。敬和学園の3年間は、自分探しの旅に出るための準備をしていたのだと、私の自分探しはこれからも続きます。」敬和における3年間の自分探しの歩み、そして、これからもその旅を続けて行くという決意が込められたすばらしい文章です。
門は開かれる
54回生の皆さんの自分探しの旅が始まりました。新しい旅立ちです。それぞれが本当の自分を発見してください。それは必ず見つかります。なぜなら、その自分は、すでに存在しているからです。それは、あなたに発見されることを待っています。
あなたの人生において、最も大切なものを敬和学園で求めてください。それは必ず与えられます。探してください。必ず見つかります。粘り強く、求め続けてください。一度や二度、門を叩いて開けてもらえないからと言って、諦めてはいけません。門が開くまで、何度でも叩いてください。必ず門は開かれます。
なぜなら、人間にとって本当に大切なもの、必要なものは、その人の人生に既に備えられているからです。それは、あなたに見いだされることを待っているのです。