自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2025/10/06
【聖書:ルカによる福音書 4章 14節-20節】
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
新約聖書には、イエスの降誕、12歳の時の少年イエスが描かれていますが、それから30歳くらいまでの間のことは何も記されていません。わたしはその沈黙の期間に注目します。彼は早くに父親を亡くしたのだと思います。母親、6人以上の兄弟姉妹(マルコ6・3)を支えながら、一家の大黒柱として歩んでいたのです。多くの苦労も経験してきたのではないでしょうか。
やがてイエスは洗礼者ヨハネのもとを訪れます。彼もまた罪の赦しを求める、重荷を背負った一人の人間でした。彼はヨハネのもとで、バプテスマ(溺れて死ぬ)という言葉のように、古い自分を手放し、新しくされたことを感じとったのです。
大学時代に出会った先生の言葉を思い出します。「悔い改めとは、これまでの生き方を百八十度方向転換されて進むことに他成りません。何から何への方向転換でしょうか。その一つは、『わたし』だけの世界から、『あなたとわたし』の世界へ、そしてもうひとつは、『無言』から『訴え』への方向転換です。(中略)『両手を合わせた祈りは』は、その響きの中で、次第に『両手を広げた祈り』へと変えられてゆくことを体感するはずです」。 イエスもまた『あなたとわたし』の世界」を意識する者となっていったのです。『無言』から『訴え』る者となっていったのです。誰かと手を繋いで一緒に生きるために両手を広げながら、歩む者となっていったのです。
先週、修養会が開催されました。修養会で経験したことが『わたし』だけの世界から、『あなたとわたし』の世界に向かっていく出来事となれば、と願っています。