自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2025/05/27
【聖書:マタイによる福音書 6章 22節-23節】
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
五泉教会の牧師の宗像亮二です。五泉いずみこども園の園長でもあります。ハグマン先生が来て下さるおかげで朝の放送は園児が英語でします。ジャズホーネッツの皆さんには何度も来ていただき、感謝しています。
五泉いずみこども園には0-5歳児が24名在籍しています。3-5歳児は毎週木曜日に合同礼拝をします。園児は聖書のお話をよく聞きます。昨年の年長児の一人は「礼拝は大事なのは分かるけどおもしろくない。」と言いました。後で私に気を使って「お話はおもしろいけど。」と付け足しました。生活の中でこどもなりにほってはおけない真剣な問題があります。弱い人を助けたり、ずるい人が得するのを許せなかったり、話したいことを聞いてもらえると嬉しかったりするのです。そんな思いが聖書のお話とぴったりくるようです。この前は狼が来た時、逃げる羊飼いと羊を守るために戦う羊飼いのお話でした。
皆さんにとって「体のともし火は目である」という言葉はどのように聞こえるでしょうか。目の中にある小さな光が全身を明るくしたり暗くするというのです。私がキリスト教の洗礼を受けたのは20歳のクリスマスでした。成人式も教会の成人祝福式でした。洗礼を受けても何も変わりませんでしたが、自分中心でない生き方はどんなだろうと思うようになりました。23歳のとき同志社大学の神学部に入学しました。27歳で牧師になり6つの教会を歴任しました。自分中心でない生き方は見つかったでしょうか。すぐ近くにありそうな気もしますが本気になって捜してみるとどうしても見つかりません。ただ聖書はそれを見つけるためにあると思います。なぜ自分中心ではない生き方をそれほどまでにして捜さなければならないのでしょうか。それほど大切なものなのでしょうか。
讃美歌21の161番と162番はよく似ています。161番は「見よ、主の家族が」162番は「見よ、兄弟が」です。共通のテーマは「共に」と「なんと」の言葉に表れています。当たり前のことなのに容易なことではない、そして共にいる時を「なんと大きなみ恵みよ、なんと大きな喜びよ」と歌うのです。背景には求めても求めてもどうしても達成できない失敗の繰り返しがあったはずです。
一人の園児はこんな言葉を残しました。「僕は嫌なことをされたけど優しくしてあげた」また別の園児は友だち同士がトラブルになっているのを見て「礼拝でどうぞどうぞって言ってたよ。」 新しい1日には不安があります。毎週日曜日の礼拝の度に大海原に小舟で漕ぎ出すような感じがします。神様は願い通りにしてくれないのです。他の人の心もいいようにはなりません。それでも神様の恵みは思ってもいなかったところに働きます。祈りは無駄ではありません。祈り求めた通りにならなくてもいいのです。思いがけず理解ある人の心に出会うことも少なくありません。たどたどしくも人に安心を届けられるような関わり方を学びたいのです。五泉いずみこども園では園児に手助けはしないようにしています。自分でできること、できないことがあるからです。自分でできることに気づくように見守るようにしています。イエス様もそれぞれが自分で歩くようになるために共にいて下さいます。できない自分に気づきながら、それでもよいのです。私が私であることが最優先され、歩き始めるときがくるのです。そういう自分と共に歩いて下さる方があるのです。