毎日の礼拝

毎日のお話

2025/05/02

野間 光顕(寮長)

【聖書:マタイによる福音書 26章 73~75節】

しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 

 

 みなさんおはようございます。
 今日は、一本の映画を紹介する所からお話を始めたいと思います。みなさんは、今、驚きと衝撃とで世界中から注目を集めている映画があるのをご存じでしょうか?タイトルは「教皇選挙」といい、新潟でも絶賛上映中です。「教皇」というのは、キリスト教の最大派閥であるカトリック、その頂点に君臨する存在を指すのですが、その人が亡くなる事で次の教皇を決める選挙の様子を描いた物語となっています。この説明だけなら「ふーん…あんまり関心ないわ…」と思う人も多いでしょう。正直な話、私も観に行く前は、聖書の授業の参考になるかな…?くらいの軽い気持ちでチケットを購入したのですが、実際に観てみて度肝を抜かれました。まず、世界で最も注目される選挙、これは国会議員や県・市議会議員を決める選挙とは全く違うのです。カトリック信徒は全世界で14億人を超える、つまり支持者の数で言うならばアメリカ大統領やイギリスの首相をも超える絶大な権力をこの選挙で選ばれた人物は手にする事となるのです。それだけの力が譲渡される選挙なので、決める方法も尋常ではありません。世界各国の主教(これだけでもものすごい権力を持っているのですが…)108名が、イタリア半島の中央辺りに位置するヴァチカン市国のシスティーナ大聖堂に集められ、缶詰めにされる事から選挙が始まります。中の様子が外部に漏れる事を防ぐため全ての窓は2重窓にされ、ブラインドも閉じられるので昼間でも真っ暗、教皇が生前使用していた部屋は赤い垂れ幕とロープで固く封印されます。そして108人の主教が投票を繰り返し、全体の3分の2、つまり71票以上を獲得する人が出るまで、繰り返し何度も投票が行われます。この選挙の事をラテン語で「コンクラーベ」(鍵がかかった空間の意味)と呼ぶのですが、「まさに日本語の『根競べ』やがな…」というおやじギャグが各国の教会で囁かれます。
 この映画では、そんな熾烈な教皇選挙の内実をリアルに再現しているのですが、当然それだけでなく教会内の権力や派閥の争い、政治的取引や不正・スキャンダルなど現在のカトリックが直面している問題にも深くメスを入れる事で、非常に完成度の高いミステリー作品として仕上がっています(アカデミー賞も受賞しました)。
 私も先月観に行って、二転三転するストーリーに翻弄され、クライマックスでは腰が抜けるほどの衝撃を受けたので、周りの友人や先生方にもお勧めし、すごい映画でしたね…と鑑賞後の感想を言い合っていたら、先月の4月21日になんと本当に教皇フランシスコが亡くなってしまったのです。そのニュースが驚きと共に世界中で報じられた事から、この映画は再び全世界から注目を集め、先週比200%の観客を動員する映画館が出る程です。
 と同時に、この映画を通して亡くなった教皇フランシスコの働きにも改めて注目が集まっています(26日の葬儀には25万人が参列)。映画内でも描かれていますが、この教皇はこれまで保守的だったカトリック教会を大きく変革しました。豪華絢爛な教皇専用住居ではなく礼拝堂の宿舎の一室に住み、世界の分断の解消を求めイスラム教徒の足を洗ったり、同性カップルに祝福を送ったり、自国の経済発展を求めて戦争を続ける大国を厳しく非難しました(2019年に訪日した時は広島・長崎でも説教を行った)。特に教皇就任後に間もなく、全世界のカトリック教会に一枚の写真を配布し話題となりました。それが長崎に落とされた原爆で被爆し、弟の遺体を背負った兄の姿を映す「焼き場に立つ少年」です。これを通して全世界に核廃絶のメッセージを呼びかけたのです。
 元々「カトリック」とは「普遍」を意味し、時代や世界がどれほど揺らいでもそれに流されることなく、約2000年前の初代教会の時代から続く慣習や伝統・文化を守り続ける事に存在意義を見出す教派ですが、なぜこのフランシスコ教皇は、それまでの歩みから一線を画す大胆な改革に乗り出す事が出来たのでしょうか…? それには彼自身の出身地である南米アルゼンチンで経験した失敗が起因していると言われます。彼が教皇になる前、当時のアルゼンチンは軍事独裁政権が大きな力を持っており、平和を求めるカトリック教会には厳しい迫害が行われていました。それに立ち向かって逮捕されたり、処刑されたりする神父が出る中、南米イエズス会の管区長を務めていた彼は、何とか迫害を受ける人々の命を救おうと奔走しますが、残念ながら状況を変える事はできませんでした。その時の経験を振り返ってフランシスコは次のような回想を残しています。「想像を絶する迫害の中、何とか改善しようと全力を尽くしたが、状況を変えるには至らなかった。『結局何もできなかったあいつは、独裁政権の手下だ』という批判の声が耳に入り深い絶望を覚えた。私の力不足で恩師であるエステル神父が逮捕され深い傷を負った時や、処刑された兄弟の家族から『お前が殺したも同然だ』という手紙をもらった時ほど、自分の無力さを呪った事はなかった…。」
 しかし、その経験が教皇になったフランシスコを大きく支え、彼が進むべき道を踏み出す原動力となっていったのです。大きな失敗を通して人は前よりも強く優しくなれる、今日の聖書個所はイエスの弟子ペトロが大きな失敗をしてしまう所を読んでもらいましたが、ペトロだけではない、実は私たちの集うこの敬和も同じで、敬和誕生の背景には悲しい失敗があった事をご存じでしょうか?敬和ができる前の新潟には、北越学館と新潟女学校というキリスト教学校がありました。しかしどちらも生徒が集まらず廃校になってしまったのです。港町として異文化を取り入れた横浜や神戸はミッションスクールが数多くできているのに…。やはり日本海側で農業が中心の保守的な新潟にキリスト教学校は無理か…?厳しい批判の中でも新潟のキリスト教会は祈り求め続けました。そんな中、偶然関西から来た大阪女学院の聖歌隊が市役所前で「キリストには代えられません」を歌った、その歌声に感動した市長がキリスト教学校設立を提案、教会の熱い祈りと支援も相まって敬和が誕生する事になるのです。
 新しい月:5月を迎えました。この月は定期テストに加えてフェスティバルの準備、また各クラブの大会など、敬和内外の諸活動がグッと盛んになる時期でもあります。何かに取り組めば、思わぬミスや想定外の失敗も必ず起こってきます。しかし、その失敗の中にこそ大切な成長の種が隠されている、あの失敗があったからこそ出会える・気付ける仲間や自分がいるのだと思います。この月の皆さんの歩みが主の祝福と導きによって有意義なものとなるようお祈りしています。