自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2025/02/06
【聖書:ヨハネによる福音書 5章 1-9節】
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。† さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
数年前に『寅さんとイエス』という本を読みました。寅さんというのは『男はつらいよ』の主人公車寅次郎のことです。最初はテレビドラマが放映され、その後映画化され50作が上映され国民的な人気キャラクターとなりました。寅さんは全国を旅する露天商です。「フーテンの寅」などと呼ばれ非常に自由な人物です。映画では、寅さんが旅先で様々な人々に出会い、その人々との交流も描かれます。『寅さんとイエス』という本では、映画第40作目の「寅次郎サラダ記念日」でのエピソードが記されていましたp.203)。
バス停には村のおばあちゃんと寅さんが二人並んで立っています。気さくな寅さんは、そのおばあちゃんに話しかけます。おばあちゃんがバスで家に帰ることを知った寅さんは「孫に土産でも買って帰るのか?」と切り出します。おばあちゃんは、家族全員東京に行って一人だと寅さんに伝えます。寅さんが「そりゃ寂しいなあ」といった後におばあちゃんは「おめぇ様は、おもしれぇ人だな」といいながら寅さんの大らかさ、気さくさにひかれていき「今晩おれぇとこ、泊まらねぇか?ごっつぉするから」と申し出ます。その言葉に寅さんは「いや、俺、暇なように見えるだろ。だけど結構これでいろいろ忙しんだ」と返事をします。しかし、寅さんはこの時迷っていたのです。
『寅さんとイエス』の著者はカトリック教会の米田彰男司祭です。司祭はこの場面を次のように記しています。「『ありがとう』と言って寅は立ち去ろうとするが、もう一度振り返る。一瞬見つめあう寅と老婆。本の瞬間であったが、寅は老婆のまなざしの中に深い孤独を読み取る。そして二人はバスに乗り、老婆の家に向かう」と。
寅さんは一瞬迷ったのですが、このおばあちゃんが求めていることを読み取ったのです。ただ読み取っただけではなく、自分の時間を割いて、このおばあちゃんのために自分の時間を使うことを決断しているのです。迷うことは立ち止まること、後ろを振り返ることです。そのような迷いが自分ではない誰かに希望を与えることになるということなのかもしれません。
今朝の聖書にはエルサレムの祭りに参加するイエスの姿が記されています。祈るためにこの場所を訪れたのだと思います。しかし、5章1節の「ベトザタの池」は祈りの場所ではありません。貯水池です。イエスはエルサレムにやってきた本来の目的を逸れて、この場所にやってきたのです。遠回りしているのです。この池は南北40メートル・東西52メートルの大きな池と南北47メートル、東西64メートルの不規則な台形の形をした大きな二つの池があったようです。そこには5つの回廊がありました。回廊には、病を煩う人、身体上のハンディキャップを負った人たちが大勢集まるようになっていました。池にはいつの頃からか、ある伝説が語られるようになっていたのです。3節と5節の間に十字架のマークが記されています。後世の追加記事のために十字架マークが記されているのです。ヨハネによる福音書の最終ページに後世に付け加えられた言葉が記されています。「時々、御使いが池に降ってきて水をかき乱す。その時に池に入れば、どんな病でも癒される」という内容です。
イエスは遠回りをしてやってきたこの場所である人に出会います。その人は38年もの長い間、ベトザタの池の回廊で横たわって生活していたのです。何らかの病気に苦しめられていたのだと思います。この人もまた例の伝説を信じていたのです。水がかき回される時、池に入ることができれば病気は癒やされる、という伝説です。イエスはこの人に「良くなりたいか」と言葉をかけます。この人は「良くなりたい」とは言葉を返しません。「池が動く時、池に入れてくれる人がいない。わたしが入ろうとすると先に誰かが池に入ってしまう」と答えたのです。この人は、次こそ自分の番だと待ち続けていました。自力では池に入ることはできません。誰も池に入れくれる人がいなかったので、彼は38年もの間、そこに横たわっているしかなかったのです。「孤独の苦しみ」、「誰も気付いてくれないという痛み」を感じながらそこに横たわっているしかなかったのです。やがて彼は声を上げる気力も奪われていったのです。彼は確かにその場所に存在しているのですが、彼の存在は見えないものとされていたのです。みんなその人を通り過ぎていたのです。しかし聖書には「イエスはその人が横たわっているのを見た」(6)と記されています。もうすでに誰にも彼の姿は見えなくなっていたのですが、イエスには彼の姿は見えていたのです。イエスは彼に言います。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と。「起きる」(ἐγειρω)は、「目を覚まさせる、立たせる、甦らせる、復活させる」という意味。「床を担ぐ」の「担ぐ」(αἴρω)は、他に「錨を上げる、出港する」意味。「歩く」(περιπατέω)には、他に「生きる」という意味があります。この人はイエスとの出会い、言葉によって、新しい命を生き始めていったのです。
わたしたちが生きている世界は、迷うこと、遠回りをすることが許されない世界になっているように思います。声の大きな人間、力の強い人間の直線的な声が他の声をかき消しているのではないでしょうか。迷うことによって、遠回りすることによって出会うことができる人を置き去りにして、前に進もうとしているような気がしてならないのです。一人勝ちを肯定するような世界になっているような気がしてならないのです。世界を見渡せばわかると思います。遠回りしたり、迷ったりしてばかりいたら進むべき場所に到達することができません。けれども、迷い、遠回りすることによって出会えるできる人がいるのです。その出会いによって自分自身の人間性が回復される。またその出会った人にも希望を与えることができるのではないでしょうか。迷いや遠回りが人間を支えるということもあるのです。