自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2025/01/31
【聖書:ルカによる福音書 19章 1節~5節】
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
みなさん、おはようございます。お話の冒頭から私事で恐縮なのですが、今日は私が子どもの頃に経験した小さな出来事から話を始めたいと思います。
私は5人兄弟の末っ子に生まれました。しかも、10歳以上離れた兄が2人と8歳・6歳離れた姉の下に私だけポンと離れて生まれたので、よく兄弟に可愛がられて育ちました。私がまだ小学校低学年の頃だったでしょうか? ある日の朝、姉の叫び声が家中に響きました。「ない!ない!ない!なんでないの⁉昨日ここに置いたはずなのに!」姉は顔面蒼白、周りのものを手当たり次第ひっくり返しながら大慌てで探し物をしています。どうやら姉はその日、彼氏とデートの予定が入っており、先日彼氏からもらった指輪をつけていこうとしたら、前の晩に外した場所から指輪がなくなっていて大慌て…という状況のようです。焦った姉は、机の周りからリビングに玄関などをくまなく探し回っています。
姉「お母さん、昨日指輪を見なかった?」
母「知らんよ…リビングでは見てないなあ。部屋に持っていってないの?」
姉「部屋は全部探したのにないのよ…どうしよう…。」
母「ウチは兄弟が多いんやから大事なものはちゃんと自分で管理しなさいっていつも言ってるでしょ⁉」
ただでさえ探し物が見つからずにイライラしていた姉は、助けを求めた母から逆に説教をされた事が嫌だったのか「もう!」と眉間にしわを寄せてリビングを出ていきました。まだ幼かった私は、「お姉ちゃんが彼氏とデート」と言われても意味がよく分からなかったのですが、いつも遊んでくれる優しい姉が大事なものを無くして困っている事は、その表情から理解できました。自分も何かお手伝いできないか…?と思って、姉が昨晩指輪を外したと言っていたお風呂場を見に行ってみました。我が家は家族が多かったので、脱衣所のカゴから洗濯物が溢れています。すると、そのカゴの奥、洗面台と壁の間に小さく光るものが見えました。洗濯物をどけてみると、それは銀色に輝く指輪でした。「お姉ちゃん、これと違うの?」と姉の所にその指輪を持っていくと、それまで顔面蒼白だった姉の表情が一変、「あああ‼これこれ‼これよ!これを探してたのよ!光顕ホンマにありがとう!」とすごく喜んだ姉は、私をギュっとハグしてデートに出掛けて行きました。朝からすごい形相で指輪を探し回っていた姉が笑顔で出て行ったのを見た母が「指輪、見つかったの?」と近づいてきたので事の顛末を話すと、母は「へえ!光顕が見つけたの⁉すごいね!」と驚いて私をすごく褒めてくれました。特にその後に続いた母の言葉「光顕は小さいけど、その分みんなと違う所に目が届くのかもね…。」が強く私の心に残りました。
今からもう50年近くも前の小さなエピソードなのですが、この時の記憶はなぜか今も私の心に残っています。この時の喜び、つまり小さな自分でも大人を喜ばせる事ができるという気付きや、別の視点を持つ事で今まで見えなかった答えが見えて来たり、今までになかった解決方法が与えられるという考えは、その後の私の人生を大きく拓く力になったようにも感じています。この経験がなければ、慣れ親しんだ地元を離れて新潟の敬和学園に行こうとは思わなかったでしょうし、大人になってから経験した地震などの自然災害、一見マイナスにしか見えない事の中にも意味を見出し復興支援ボランティア活動に参加する事もなかった、また敬和に来る前に住んでいた沖縄に導かれる事もなかったと思います。
今日の聖書個所には、ザアカイという名前の徴税人が出てきます。徴税人とは、人々から税金を集めて回る仕事をする人の事ですが、当時はユダヤ人でありながら、ユダヤを支配していたローマ帝国の手先となって働いている、あいつは裏切り者だ!罪人だ!と人々から忌み嫌われていました。そんな寂しい思いをしていたザアカイの耳に「救世主イエスが街にやってきた」というニュースが飛び込んできます。目覚ましい奇跡を行うと噂されるイエス・キリストとはどんな人なのだろう…?一度会ってみたい!と思ったザアカイは、人々が集まる広場に向かいますが、すでにそこには黒山の人だかりができている。しかも背が低かったザアカイからはイエスを見る事ができない。どうしよう…と思ったザアカイは、先回りしていちじくの木に登り上から、つまり背の低かったザアカイからは全く違った角度の視点を求めた。するとこの行為から、貴重なイエスとの出会いが与えられ、罪人と忌み嫌われていたザアカイの人生を大きく変える機会・チャンスが与えられるのです。
今日で1月も最終日を迎えていますが、先日の3年生終業を経て昨日からこの朝の礼拝の座席が大きく変わりました。これは、一人ひとりに今までなかった新しい視点が与えられた事を意味しています。今までは一番後ろに座っていた57回生、先日の1月入試で合格した58回生に席を譲って先輩になろうとしています。「先輩って言ったって放っていても4月になれば学年が上がって先輩になる…」と思うでしょうか? 違います。特にここ敬和では、1月~3月までの年度末をどう過ごすかで、どんな先輩になるのかの道が定まってきます。よく言われるのが「しっかり送り出した人は、しっかり送り出してもらえる」。これまではコロナ禍で全校生徒が集まれなかったり、そもそも公立の中学校なら卒業式は在校生お休みという所も多かったかもしれませんが、昨日の青柳先生のお話にもあったように、敬和は卒業する3年生を在校生が感謝と祝福の想いを込めたメッセージで送り出す事が重要な伝統となっています。初めての人は戸惑いや面倒臭い…と感じる人もいるかもしれませんが、ぜひこれに全力で取り組んでみて下さい。今までと違った視点や相応しい成長が必ず与えられるはずです。
そして56回生は一番前、つまり全校生徒に背中や生き様を見せる時が来ました。礼拝に必要な聖書・讃美歌は持ってきていますか? 進路という、自分の人生に関わる大きな課題に向き合う事となる3年次は、必要なものをしっかり準備して取り組む事が今まで以上に求められるようになります。そのような生きる姿勢は一朝一夕に身につくものではありません。必要な準備を今この時から、毎朝の礼拝を通して積み重ねて欲しいと思います。今日は視点が変わる話をしましたが、何より私が心配しているのが礼拝に遅刻してくる人です。残念ながら朝の礼拝のルールで、遅刻した人は語られているメッセージを妨げないよう後ろの端の席に座る事になっている、つまり成長に必要な視点が与えられない事になります。いつもその脇の席に座っている人、ぜひもう5分早くチャペルに来て、自分に与えられた相応しい視点、今まで以上にこの傷ついた十字架が大きくハッキリ見える席から自分に与えられた使命を模索する歩みを初めて欲しいと思います。
最後に、一つ告知をさせて下さい。私は来週の月曜から3名の3年生と共に沖縄に行ってきます。と言っても遊びに行くわけではありません。自らの意志で「沖縄を学びたい」と申し出てくれた3名と共に、80年前に起こった沖縄戦、実に24万人以上の命が失われた場所から、この日本社会や世界、また一人ひとりに与えられた命の尊さを見つめ直してきたいと思います。帰ってきたら報告会も行う予定ですので、皆さんもぜひ参加してその視点に与って欲しいと思います。善き学びの時となるようご加祷下されれば幸いです。