自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2025/01/10NEW!
【聖書:コリントの信徒への手紙二 4章 16‐18節】
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
みなさん、おはようございます。
今朝は、年に一度の体育館礼拝。それがよりによって新潟市が大雪に包まれたこの時に当たるとは…。しかし、これもまた見えない大きな存在からの導きの1つである事を覚えつつメッセージをお話ししたいと思います。
今は敬和のシンボルでもあり、入学や卒業、フェスティバルからクリスマス礼拝まで様々な行事の会場ともなっているチャペルですが、これは敬和の創立30周年を記念して建てられたもので、それより以前、チャペルが存在しなかった時代はこの体育館で毎朝礼拝を行っていました。向こう側にステージがあり、校舎側からグラウンドに向かって1年生から3年生がクラス毎に1列ずつ並んで礼拝に参加していました。私は21回生なので、この体育館で3年間、朝の礼拝を経験した一人です。当時の宗教主任の先生は大変厳しい方で、遅れて来た生徒は体育館の入口で正座をさせられていた事が印象に残っています(その先生も一緒に正座をされていましたが…)。ステージの上には白いプレートが掲げられており、先ほど読んでもらった聖書箇所、第Ⅱコリント4章の言葉「見えないものに目を注ごう」が大きな字で記されていました。毎朝の礼拝では、今と同じようにメッセージ担当者が選んだ聖句が読み上げられますが、それらを越えてこのボードの聖句は何か不思議な迫力というか、深い思想をもって呼びかけて来る。先日、うちの妻(25回生)の同級生が遊びに来て、思い出話に花が咲いた時、その内の一人が「そういえば体育館のステージ上に聖書の言葉があったよね…」と話していました。クリスチャン・ノンクリスチャン関係なく、一人ひとりの内側に問いかけて来るような揺ぎ無い言葉の力がそこには存在していたように記憶しています。
そんな中、より一層敬和のキリスト教教育を推し進めたいという強い願いから、3代目校長:榎本榮次先生(現理事長)の時代に、祈りの柱としてチャペルが建設されました。毎朝の礼拝がチャペルに移った事で、この体育館の使用頻度はガクッと下がりました。体育の授業や部活、フェスティバルのバザーなどには使われていましたが、やはり建物というものは使わなくなると痛むスピードが格段に上がります。ステージのせいで今より床面積が狭い(バスケットやバレーのフルコートは取れない)ので大会も開催できないと不満の声も上がる中、ついに今から10年前の創立45周年記念の時、新しい体育館の建設計画が持ち上がりました。最初の案は今の創生館の北側、グラウンドに続く砂利の坂道の所に新しい体育館を作る…というものでした。坂道の勾配を利用して体育館の地下に雨天練習場も完備されるという素晴らしい案で、これにはグラウンドを使用している野球部やラグビー部・サッカー部も大喜びでした。ところが、この計画は思わぬ形で大幅に変更される事となります。当時、この頃から敬和の卒業生の子どもたちが入学してくる(今は普通に多くいますが…)ケースが増えて来ました。自分の子どもを連れてオープンスクールや学校見学に来た卒業生保護者が、懐かしい風景に目頭を熱くする…そんな場面を幾度となく見続けて来た4代目校長の小西二巳夫先生は、ボロボロになった体育館を潰すのではなく、壁や床、天井をはがし、最新の建材でリフォームする方法を選択しました。ちなみに新しく建てるより、リフォームする方が作業も大変ですし、費用も多くかかります。しかし、小西校長は、卒業生がいつ帰ってきても自分たちの青春を過ごした場所が昔の趣を保ったまま新しい形で残っている…これが大事なんだ。だってそれを潰すという事は、帰って来てくれた方々が受けた敬和教育を否定する事に繋がるし、何より敬和の校歌の最後は「永遠の故郷」って歌っているじゃないか⁉と言われていました。実際に行われたリフォーム工事は大変なものでした。古い体育館の天井には、今の建築基準では使用できない石綿が詰められており、それを専用の道具で吸い取るため、工事関係者の方々は暑い夏の最中、宇宙服のような格好で汗だくになりながら作業をされていました。壁をはいで鉄骨だけになった体育館、さあ次は古い床を撤去して…とリフォーム準備の最終工程に入った時、工事関係者の方々から驚きの声が上がったと言います。普通、床下というのはコンクリートが敷き詰められ、それを支える為に太い鉄の棒(専門用語でアンカーボルト)が打たれている事が多いのですが、体育館は広いので床を全部剝がしてみると、そこには約700本もの鉄棒が突き出ており、しかもそれが全てギュッと折り曲げられていたというのです。直径2、3cmある鉄の棒を700本以上折り曲げる…これは労力としては大変なものです。しかし、最初に敬和の体育館を作った建築会社の方々は、次に体育館を工事する担当者がケガをしない様に、その突き出ている700本の鉄棒1本1本を丁寧に折り曲げて行ったというのです。リフォームを担当していた建築会社の監督さんは、「見えない床下だから手を抜いてもバレないだろう…ではない、たとえその労力が誰に評価されなくても、次に工事される方の安全を想って、この700本をすべて折り曲げた。最初にこの体育館を建てられた方々のプロ意識とこの建物への想いを強く感じました…。」と語っておられました。
今日、この体育館礼拝を通して皆さんに感じてもらいたい事、それは皆さんが集うこの敬和学園が、計り知れないほどの祈りや願い、そして想いが込められている学校であるという事です。先ほど一緒に歌った讃美歌522番「キリストにはかえられません」、これも敬和が誕生するきっかけを作った讃美歌です。新潟港開港100周年記念事業をどうするか模索していた新潟市長の前で、大阪女学院の聖歌隊がこの讃美歌を披露した事がきっかけとなり、「新潟にミッションスクールを…」と願い続けた新潟地区教会の方々の熱い祈りと想いとが合わさって敬和が誕生しました。
今、私たちの集う社会や世界はものすごいスピードで変化し、今までの常識や計算が通用しない時代が来ていると言われます。アメリカ大統領選挙や日本の市長選挙でもSNSを使った候補が躍進した、これからはSNSの時代だ!と盛んに叫ばれていますが、今日の聖句はそんな数字に本質は存在しない、過ぎ去ってしまう目に見える数字ではなく、永遠に存続する見えないものに目を注いでいく…。この言葉が、私が在学していた35年前やそこらではなく、約2,000年も前から数え切れない程の人々の心に力を与え続けてきた事実…。これこそ、今、敬和に集う生徒、そして教職員が最も目と心を向けなければならない、まさにこの敬和の根底に流れる見えない「想い」の力なのではないでしょうか?