自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2024/07/12
【聖書:コヘレトの言葉 3章 1-8節】
何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時 保つ時、放つ時
裂く時、縫う時 黙する時、語る時
愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。
みなさんおはようございます。
7月もはや中旬を迎え、前期も終わりが近づいてきました。スケジュールを確認しようと月間予定表を見ると、本日12日の所に「オーストラリア海外教室」という文字が書かれているのに目が留まりました。海外教室とは、敬和の創初期、1ドルがまだ360円だった時代から行われている約3週間の短期留学プログラムです。新型コロナの世界的蔓延によって、zoom等の遠隔通信機器が発達し、世界中の人と簡単に会話を楽しんだり、現地に行かなくても会議やセミナーに参加する事ができるようになりました。それでも、実際に出掛けて行き、異文化の中で生活をする事で得られる生の学びは自分を様々な方向から成長させてくれる力を持っていると思います。
私自身も大学4年生の時に1年間オーストラリアで生活する機会が与えられましたが、今思い返してみても「異文化に触れる」というのは、驚きと発見の連続でした。ある日、電車に乗ってシティへ買い物に行こうとすると、駅のホームに大きな数字が示された告知板が設置されていました。よく見ると、そこには「Depart 5 min」(出発5分前)と表示されています。この「5」が「4」になり、「3」「2」「1」と減っていき「0」になると電車が来るシステムになっているそうで、私は本を読みながら電車が来るのを待っていました。しかし待てども待てども一向に電車は来ません。おかしいな…?と思ってさっきの告知板を見ると、「1」まで減っていたはずなのにまた「3」に増えているではないか!?
どういう事⁉と思ってよく見直すと、出発を表す「Depart」が、遅延を表す「Delay」に変わっていました。しかも私が住んでいたのは田舎町だったので、こういう事が頻繁に起こっていました。本数の少ないバスはもっと遅れが酷く、バス停の所に一応時刻表らしきものが貼ってはあるのですが、時間通りに来る事は滅多にありませんでした。酷い時は、バス停で並んでいると、通りかかった知らないおじさんが「バスが向こうで故障していたので、今日は多分待っていても来ないよ…」なんて声を掛けられる事もありました。私は、時間通りに電車やバスが来る日本との違いに辟易して、その事をホームステイ先のおじさんに話をすると、こんな返事が返ってきました。「ははは、確かにオーストラリア人は時間にルーズな所があって、のんびり屋さんの人が多いかもしれないね。30分くらい遅れるのは当たり前みたいな意味の『オージータイム』という言葉もあるし…。その昔、時間に追い立てられる慌ただしいイギリスから逃れてこの大陸に移り住んだ人々は、そういうギスギスしていない、もっと開放的でのんびりした生活や文化を大切にしたのかもしれないね。でも、知っているかな? 世界を見渡して時間通りにきっちり電車やバスが来るのは、日本と韓国とスイスぐらいらしいよ…。」
その話を聞いた時、私は「へえ…そうなんだ…」と思っていたのですが、実は日本の中にも、これにソックリな言葉が存在する…それを3月まで住んでいた沖縄で発見しました。沖縄では島の中の事を「うちなー」と言い、島で生まれた人の事を「うちなんちゅ」と呼びますが、のんびりした島の空気の中で時間に遅れて来る事を「うちなータイム」と呼び、30分、1時間、酷い時には2時間くらい遅れてやってくる強者もいるそうです。大学時代にオージータイムを経験した私は、このオーストラリアと沖縄の奇妙な一致に、何か文化的な繋がりや関連があるのか⁉と感じたのですが、その話を沖縄の教会の方々にするとこちらも意外な答えが返ってきました。「時間にルーズなうちなんちゅ…。そこからよく沖縄の人はだらしないと思われがちなんだけど、実はそうせざるを得ない理由が、生活のあちこちにあるんですよ。地理的に風の影響を受けやすいので天気がコロコロ変わる、ついさっきまで晴れていたのに、急に前が見えない程の大雨が降り出して足止めされてしまう事もよくある。79年前の戦争で大量の砲弾が撃ち込まれた事から電車や地下鉄がない、ただでさえ小さく狭い島の中で車がひしめき合っているのに、そこに米軍の車両が加わる事と更に酷い交通渋滞が慢性的に発生しているよねえ…。でも、長い間島で暮らしていると、遅れた相手の事を思い『待つ』事ができる寛容や優しさがうちなータイムの根底にあるような気がするんですよ…。」
私は、遅れた相手を信じ、待つ事ができる「優しさ」を、沖縄から1860㎞離れたこの敬和でもよく見かけるように思います。8年ぶりに戻ってきた敬和、そこで驚かされたのが生徒の遅刻です。授業が始まっていても堂々と遅れて入ってくる生徒、特に気になるのが朝の礼拝に遅れてくる生徒の多さです。4月からの約3ヶ月間で不思議に思ったのが、遅れて来る生徒から開始時間に自分を合わせようとする姿勢が感じられない。與那城先生が「鐘が鳴り終わりましたのでドアを閉めまーす!」と叫ばれても知らんぷりでスマホを触っているとか、別に用を足すわけでもないのにトイレに集まって談笑しているとか、賛美歌を歌い終わり、聖書も読んでお話が始まっているのに靴をキュッキュッと鳴らしながら入って来て右後ろの席に堂々と座る…。中国の諺に、人前を憚らず、他人を無視して、勝手で無遠慮な言動をする様子を表す「傍若無人」というものがありますが、これは堂々と振る舞う事を勧める良い意味ではなく、そのような人間の姿が恥ずかしいものである事を表した言葉です。まあ、8年前より通学生の割合が増えた事で、バスの数や走るコースも複雑になっており、加えて雨や雪などの気象条件によって公共交通機関の対応も変化するので難しい所がある、更に生徒それぞれの中にはその時礼拝に参加し難い事情があるのも理解できますが、先日行われていた就職セミナー、その参加者名簿によく遅刻してくる生徒の名前があるのを見た時、「もうあと半年ほどで社会に出て大丈夫なのだろうか…?」と心配になります。学期末も近づいたので、先日その生徒の事をクラス担任の先生に相談すると、その先生も肩を落としながら「そうなんです、私も心配して声を掛けているんですが、なかなか改まらず…」と深いため息が返ってきました。その先生の困った表情を見た時、沖縄で体験した遅れて来る仲間を待つ事ができる「優しさ」と、3年間共に歩みながらもなかなかやって来ない成長を信じて今日も祈り続ける先生の「寛容」、私はそこに沖縄と敬和の不思議な共通点を感じてハッとさせられました。
今日の聖書箇所は、イスラエルに栄華をもたらした知恵の王ソロモンの遺した言葉集:コへレトの言葉の中の「時」に関する有名な部分です。ここには、生まれる時や死ぬ時、破壊する時や建てる時、泣く時や笑う時など相反する2つの「時」が数多く示されていますが、そのどちらの中にも、神の定められた重要な意味がある事が語られています。聖書の中で「時」はその長さ・短さを表す「クロノス」と、時間の充実度を表す「カイロス」がある事は、以前小田中校長が朝の礼拝でも語られていましたが、本当の意味で充実度を高めるには、与えられた「時」をどのように用いるか、その「時」とどう向き合うかが問われているように思います。どれだけ科学技術が発達しても、私たち一人一人に与えられた時間は1日24時間、敬和で与えられた学校生活は3年間です。その3年間に相応しい一人ひとりの「時」がある事、それを祈り求めながら、今日も「傍若無人」ではなく、「傍若祈人」の切なる願いが響く敬和学園でありたいと思います。