毎日の礼拝

毎日のお話

2022/05/17

村田 茜(英語科)

コリントの信徒への手紙一 12章 19-20節

 私たちは様々な顔を持っています。この顔、自分が何者であるか、は私たちの皮膚に描かれた模様のようなものだと、ある本で読みました。複数のグループの模様をつけて、私たちは生きています。いくら模様がたくさんあったとしても、私たちが纏っている皮膚はたった1枚で、そこに描かれた模様の組み合わせが一人ひとり違うからこそ、私たちはユニークな唯一無二の存在なのです。

 

 4月は出会いの季節。55回生との出会いは私にとって大きなもので、いい出会いだと思うことが、この1ヶ月で何度もあありました。同時に、お互いをよく知らないこの時期は特に、一部をその人の全てだと勝手に決めつけて期待していい人に仕立てあげてしまいます。その後に少しでも自分の願っていない顔が見えようもんなら、勝手にがっかりして、時に、私たちは攻撃的にすらなってしまうのです。あるいは、同様に自分の模様の1つに過ぎないのに、誰かに「それがお前の本当の姿だ」と決めつけられたり、自分の全てだと思い込んだりする時に、私たちは苦しさを感じてしまいます。この、一部が全てだと思い込むことは、その人に全身タイツを着させるようなものだと思います。全て覆い尽くして、他に目を向けられなくさせる恐怖の全身タイツです。私自身、誰かにこれを着させてしまうことがよくあります。

 

 神様は、私たち人間をよく考えて造ってくださっています。これだけの数の人間がいたら「あら、うっかりしてこの間の人と、全く同じ仕上がりにしちゃったわ」なんてこともありえそうなのに、私たちには誰1人として同じ存在がありません。

 

 体は1つの部分ではなく多くの部分からなっています。 全てが1つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるのでしょう。どこに「私」が「あなた」がいるのでしょう。