お知らせ

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2022/04/18

今週の校長の話(2022.4.18)「イースターエッグ」

校長 小田中 肇

 

【聖書:マタイによる福音書 7章7~8節】

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる。」

 

新年度を迎えて3週目となりました。

先週はウェルカムデーがあり、2年ぶりで対面式が行われました。

1年生はオリキャンで練習した歌をうたい、2,3年生は歓迎のハレルヤ合唱でこたえました。

1年生も楽しそうに大きな声で良かったですが、2,3年生のハレルヤはさすがだ、と思わされました。

歌声がチャペル全体に響きわたりました。1年生もあまりの迫力に驚いたのではないでしょうか。

敬和らしい対面式ができて嬉しく思います。

 

チャペル前の掲示板には聖書の言葉が書かれています。

4月から新しいものになりました。

「彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ書2章4-5節)

2,3年生には3月の礼拝で紹介しましたが、これは紀元前8世紀のイスラエルの預言者イザヤの言葉です。

3年生のYさんに書いていただきました。

 

この言葉はアメリカ、ニューヨークにある国連本部ビルの玄関前の石碑に刻まれています。

イザヤは戦争の武器である剣や槍を、平和の道具である鋤や鎌などの農機具に打ち直すこと、そのような時が必ず来ると預言しました。

この言葉は、残念ながら、今日に至るまで実現されていません。

しかし2700年以上前から今に至るまで、このような言葉が伝えられてきたことの意味は大きいと思います。

ウクライナにおける戦争が激しさを増す今だからこそ、私たちも平和への願いを込めて、この言葉の意味するところを大切にしたいと思います。

 

さて1年生の多くは敬和に来て、初めてキリスト教に触れたことでしょう。

私がキリスト教と出会ったのは中学2年生の時、たまたま友だちに誘われて参加したキャンプでした。

栃木県にある中禅寺湖のほとりで行われたそのキャンプは、教会主催だったので、5泊6日、毎日礼拝があり、キリスト教に関するお話を聞きました。

クリスチャンでもなく、まだ中学生だった私は、お話をほとんど理解することはできませんでした。

しかしお話をとおして、それまで出会ったことがない新しい世界が広がっているのを感じました。

1年生の皆さんも、礼拝で話される言葉から、何かを感じ取って欲しいと思います。

頭で理解し考える以上のことを、人間は感じ取ることができるからです。

 

さて教会では昨日の日曜日、イースターが祝われました。

キリスト教の行事ではクリスマスが有名ですが、クリスマスよりも古くから祝われて来た行事です。

イースターは「復活祭」とも言われ、十字架にかけられて亡くなった、イエス・キリストが3日目に復活したことを記念する祭りです。

 

敬和の桜はすでに散り始めましたが、これから更に多くの花に彩られ、一斉に木々の新緑も芽吹きます。

植物や生き物たちが、長い冬の眠りから目覚め、新しい命を生きようとする季節を迎えています。

この季節にイースターが祝われるのは偶然ではありません。

この季節こそが、死からの復活という、本来ありえない奇跡を、生き生きとイメージすることのできる時だからです。

 

キリスト教会では、イースターにきれいに色取られ、装飾を施されたゆで卵を配ります。それをイースター・エッグと呼びます。

また国と地域によっては、庭や家の中のあちこちにイースター・エッグを隠して、子供たちがそれを探すという遊びがあるそうです。

なぜ卵がイースターのシンボルとされているのでしょうか。

卵は一見すると、ひとつの物体にすぎません。

しかしそこには新しい命が秘められています。時が来ると、殻を破り、新しい命が出てきます。

私たちにとっては当たり前のこの現象も、考えて見れば驚くべきことです。

卵の形からは想像もつかないものが、突然、殻を破って現れるからです。

 

フランスのフォランという人の、「卵」という詩を紹介します。

分かりにくいかもしれませんが、頭で考えず、情景をイメージしながら聞いてみてください。

『卵』

「使い古しのエプロンで 老婦人が卵を拭いている。象牙色のおもい卵。彼女にそれを「よこせ」という者はだれもいない。 それから彼女は秋をみつめる。 小さな天窓越しに それはまるでひとつの版画の大きさをもつ ひとつの繊細な絵。 季節外れのものは なにもない。 そうしてこわれやすい卵は それをにぎる彼女の掌のなかで ただひとつの新しい物体のまま。」

 

確かに、何が言いたいのか、よく分からない詩です。

しかし何となく不思議な明るさ感じさせてくれます。

老婦人の手に握られた卵と、それとは対照的に、小さな天窓越しに見える版画のような秋の情景。

この老婦人は、手の中の卵に何を感じているのでしょうか。

人生の秋を生きるこの老婦人の手には、新しい命を秘めた卵が、永遠の命を象徴するかのように握られています。

象牙色をしたその卵は、老婦人の手の中で、静かに光を放つようです。

 

先ほど子供たちがどこかに隠されたイースター・エッグを探すという遊びを紹介しました。

この遊びにも、何かメッセージが込められているように思えます。

卵は家や庭のあちこちに隠されます。そこは子供たちが日常生活を送る場所です。

日常のなかにこそ、何か驚くべきものが隠されている、しかも探せば必ずそれを見つけることができる。

このようなメッセージが、この遊びには込められている気がします。

 

誰でも、生きていれば、つらいことに出会います。

もう前にも後ろにも進むこともできず、生きる望みを失うような状況に陥ることもあるかもしれません。

しかしそのような状況からの復活、新たな命に通じる道は、日常の思わぬところに隠されています。

それは毎日何気なく付き合っている、身近な人によって与えられるものかもしれません。

 

今日の聖書です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」

あなたの人生において、最も大切なもの、それを敬和学園の生活の中で求めてください。

それは必ず与えられます。探してください。必ず見つかります。

粘り強く、求め続けてください。

簡単にあきらめないでください。

 

それはイースター・エッグのように、私たちの人生の中に隠されています。それはあなたに見いだされることを待っているのです。

人間にとって本当に大切なもの、必要なものを神様は既に備えられているからです。

私たちの願いや思いは、決して、空しく消えてゆくものではありません。

私たちもこの恵みをおぼえて今日の一日、共に歩むものでありたいと願います。

 

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