月刊敬和新聞

2021年8月号より「自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる」

校長 小田中 肇

 クラスの自己紹介のなかに、よく好きな食べ物と苦手な食べ物を回答するものがあります。クラス全員の回答を教室に貼りだしてあるのを興味深く読んだことがあります。そのとき苦手な食べ物に思わず注目しました。グリーンピースやシイタケなどが苦手な人が意外と多いのには、なぜだろうと不思議に思ったからです。私が高校生の頃とは全く違う結果です。昔はピーマンが苦手な人が多かったのですが、今はそれほどでもないようです。私は子供の頃、しじみ貝が苦手でしたが、大人になったら平気になりました。
 動物の場合でも、例えば、猫好きの人にとっては、猫が苦手な人がいることが不思議でしょう。蝶を気味が悪いといって忌み嫌う人を私は知っています。世の中には色々な人がいるものです。
 ところでグリーンピースは嫌いだといって、グリーンピースが地球から無くなればいいと思う人はいないと思います。グリーンピースが好きな人もたくさんいます。自分の好き嫌いで、相手の価値を否定することはできません。

人を好きになる
 では人を好きになるとはどういうことでしょうか。誰にでも、好きな人がいれば苦手な人、嫌いな人がいるものです。「一目ぼれ」という言葉がありますが、一目見てその人を好きになることもあります。反対に、初対面でこの人とは合わないと思う人もいます。その人を好きになることは難しいことです。まして自分にいやなことを言ったり、行ったりする人を好きになることなどあるのでしょうか。

愛を学ぶ
 敬和学園の生活では、さまざまな機会に相手の存在を認めることの大切さを学びます。例えば学校行事では一人ひとりが役割をもちます。全体をまとめるリーダーは、自分の力だけで行事ができたのではなく、一人ひとりの力が合わさってできたことを実感します。彼らは必ず最後に、みんなのおかげでやり遂げることができた、と感謝の言葉を伝えます。それは彼らの正直な感想です。
 つまり自分と合わない人、苦手な人もいたかもしれません。それでも、協力して一つのことをやり遂げることができたのは、その人たちも含めて、全員の力、一人ひとりの存在のおかげだということに気がついたのです。嫌いだった人が、かけがえのない存在へと変わっている。そう感じられる瞬間を経験しているのです。
 自分の好き嫌いを超えて、相手の人格を認めることを、キリスト教では「愛」とよびます。敬和の三年間は「愛」を学ぶための三年間とも言えます。人を愛することができるとき、心から、ありのままの自分のことも好きになれるのです。

一匹の羊のたとえ
 さて、学校は一般に「同じであること」が求められます。敬和学園はそれに対して「一人になること」を大切にします。自分探しには、時として、一人になることが必要だからです。
 聖書に「一匹の羊」のたとえという有名なお話があります。ある時、イエスは弟子たちに尋ねます。
 「もし百匹の羊のうち、一匹が群れから迷い出たとすれば、どうするだろうか。羊飼いは九十九匹を野原に残して、迷い出た一匹の羊を必死に捜しまわらないだろうか。そして、もし、それを見つけたなら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。これら小さな者が一人でも滅ぶことは、あなた方の天の父の御心(みこころ)ではない」イエスはこのように告げます。
 いろいろ考えさせられるお話ですが、私はこの一匹の羊がなぜ集団から迷い出たのかが気になります。この羊は、集団を離れて自分の人生を生きてみたいと思ったのではないでしょうか。九十九匹に合わせるのではなく、自分らしく生きてみたい、そう思ったのです。羊の自分探しです。思春期を生きる中学生の皆さんには、この羊の気持ちが少しわかるのではないでしょうか。そして羊飼いは必死に迷い出た一匹を捜し求めます。
 敬和学園では、一人になることは恥ずかしいことではありません。この一匹の羊こそ、私たち一人ひとりのことだからです。神様の愛はこの一匹に注がれます。
 一匹の羊が群れにもどったとき、羊飼いと一緒に九十九匹の羊たちも、大きな喜びに包まれたことでしょう。なぜなら九十九匹の羊たちも、それぞれがこの一匹の羊と同じような迷いの経験をどこかでしているはずだからです。一匹の羊と九十九匹の羊たち、それは敬和生一人ひとりのようにも思えてきます。
 皆さんも敬和学園で、自分らしい生き方を探してみませんか。かけがえのない高校三年間を敬和学園ですごし、自分を、そして人を、心から好きになれる人になって欲しいと思います。入学をお待ちしています。