毎日の礼拝

校長のお話

2020/06/22

「欠けたところへ注がれるもの」(ヤコブの手紙 1章5節)

 ほかの人の視線が怖い、なんだか私ばっかりに視線が集まっているような気がする。

ほかの人の視線に過敏になったり、まだできてもいない人間関係に不安を感じる人が多く出るのが新学期です。

心の奥に自分の不完全さが暴かれることへの恐怖がひそんでいる場合が多いようです。

どうすればその恐怖を克服できるのでしょうか。

 方法の一つは、不完全さを積極的に自分からさらけ出してしまうというものです。

たとえば、緊張して、手が震えて困るというとき、それを隠そうとすると、「そのことを気づかれてしまう」「気づかれたらどうしよう」という心配が生まれて、心も体も硬くなってしまいます。

でも、自分から「すごく緊張していて、いまもマイクをもっている手がこんなに震えています。」という具合に、緊張していることをオープンにしてしまえば、聞いている人は案外「ふうん そうなんだ」と思うだけだったり、心の中で温かく「がんばれ」と応援してくれることが多いように思います。

自分が隠したいと思っていることを、逆手にとってあっけらかんと話してしまうと、大抵、周りの人はすうっと聞いてくれます。

それ以上でもそれ以下でもなくその人の「本音の話」「ありのままの話」として受け入れ、共感してくれる人が多いのが敬和学園の特徴の一つともいえます。

 

 こうして自分から弱点をさらけ出した話ができるようになるには、自分自身と向き合い、自分を客観視することが必要ですし、自己開示(自分を表す)練習を積むことも必要になります。

カウンセリングを受けたり、文章に書いて自分のことを表現したりするという方法もありますが、どのような方法でも「今まで話すのを避けていたことを言葉にする練習」をするということです。

もし、いままで隠してきたことを気軽に話し、他者と共有できるようになったならば、その瞬間に自分が隠したがってきたものは別に恥ずかしいことはなくなりますし、自分が不完全な人間である証拠として胸の奥に隠しておくことでもなくなります。

むしろ、それをきちんと言葉にできた時点で、自分の弱さに向き合えるだけの強さを手に入れたということに気づくことでしょう。

 

 敬和学園の特徴の一つは生徒同士の共感力が高いということです。

おおらかに、良いところも悪いところもありのままに受け止められて学園生活を送れるということです。

自分の本心を隠さなくてはならなければ、それだけで対人緊張が強まってしまします。

「話を聞いてもらえる」「自分を受け止めてもらえる」という体験はその場所が安心できる場所だと理解させます。

隠し事をせず、心をオープンにして学校生活を送れるということは対人緊張を和らげます。

共感してもらえる仲間とつながることにもなるのです。

 敬和学園では「弱い自分」に向き合おうといろいろな場面で勧められます。

自分の弱さや欠けを認めるということです。

欠けたところを手伝ったり補ったりする人が必ずいます。

あるいはその方法を一緒に考えてくれる人の存在に気づきます。

今日の聖書箇所では欠けているところには惜しみなく、とがめだてせずに、お与えになる神の存在が記されています。

誰かを通して、何かを通して、あなたに惜しみなく注がれる神の恵みが約束されています。

欠けがあるから、自分以外の力でその欠けが埋められます。

欠けがあるから、足りないところが満たされます。

欠けがあるところに、思いもかけない形で神の恵みがもたらされるのです。

自分の弱さを自覚するとき、学園生活は豊かになります。