敬和の学園生活

日常の風景

2020/04/09

『チャペルからの祈り』 宗教部より

「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。」

(マルコによる福音書15章21-22節)

 

 

 

 2度目の休校期間に入って、4日目を迎えました。皆さん、いかがお過ごしですか。

 思うように行動できず、先が見通せずに予定がたたないというのは、本当にしんどいですね。アルベール・カミュは『ペスト』の中で、ペストで封鎖された町の人々をこう描いています。

 

「みずからの現在に焦燥し、過去に恨みをいだき、しかも未来を奪い去られた、そういうわれわれの姿は、人類の正義あるいは憎しみによって鉄格子のなかに暮させられている人々によく似ていた。」

「市民たちは事の成行きに甘んじて歩調を合わせ、世間の言葉を借りれば、みずから適応していったのであるが、それというのも、そのほかにはやりようがなかったからである。彼らはまだ当然のことながら、不幸と苦痛との態度をとっていたが、しかしその痛みはもう感じていなかった。」 (1947, Akbert Camus La Peste)

 

 誰もが自分の人生を自在にコントロールできるわけではありませんし、できないことの方が多いのですが、それでも災禍に襲われた中で受け身であり続けるということは、わたしたちをさらに不安にさせ、苛立たせ、次第に感性を鈍らせて、すべてを諦める方向へと誘っていきます。

 

 今週はキリスト教のカレンダーでは、受難週(Passion Week)にあたります。「受難」(Passion)という言葉に表現されているように、逮捕され、連行され、違法な裁判にかけられ、死刑判決が下され、十字架刑に処せられて命を奪われるイエスの姿は、一貫して受け身的(Passive)です。

 このイエスの受難に巻き込まれた人がいます。おそらく巡礼のために遠方からエルサレムへ上ってきたキレネ人シモンは、自分が架けられる十字架を背負って処刑場へ連れていかれるイエスに遭遇しました。たまたま通りかかっただけでしたが、目の前でイエスが倒れます。イエスには重い十字架をかつぐ力は残っておらず、歩くのさえやっとの状態でした。するとローマ兵はそこに居合わせたシモンに代わりに十字架を背負うよう命令しました。

 

 「え、オレ? タイミング悪っ! ここ通るんじゃなかったよ。囚人がかつぐものをなんでオレがかつがなきゃいけないんだよ。わけわからん、やなんだけど。」

 

 と、シモンが思ったかどうかはわかりませんが、ローマ兵に逆らえるはずもなく、イエスの代わりに十字架を背負って処刑場まで行かねばならなくなりました。とばっちりを食うとはこのことです。

 シモンがこの後どうしたのかは書かれていません。ただ、彼の2人の子ども、アレクサンドロとルフォスの名前がわざわざ記載されているのは、この2人が福音書の読者に知られた存在だったからでしょう。イエスの受難に、一時であっても受け身的に関わらざるをえなくなったシモンは、後にこの出来事を単なる災難と考えず、子どもたちに語って聞かせたのかもしれません。自分と無関係だったはずの人の苦難につながることは、彼自身の人生、そして子どもたちの人生に予期せぬ新しい変化をもたらしました。

 

 新型コロナウイルスの拡がりのために、この日本で、世界で、苦悩する人々の姿がメディアで報道されています。切り取られているのはほんの一部ですが、この社会には多様な生き方があること(わたしたちもその一部です)、そして今、より弱い立場に置かれている方々が、多様性を作り出している中心にいるということに改めて気づかされています。

受け身であり続けることは辛いことですが、これまで知らなかった世界に生きる多様な人たちがいることをこの機会に知ることができます。そして、それぞれの場で苦悩していることをおぼえ続けることも。感性を鈍らせるのではなく、ぜひ磨いてください。それが今できることの一つです。苦難の中にある人々とつながっていくことは、きっとわたしたちに予期せぬ新しい変化をもたらせてくれます。

 

 このチャペルで、皆さんと一緒に礼拝をささげられる日が来ることを祈りつつ。

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