自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2020/02/10
ソフト中華麺(塩野菜スープ)・ししゃもフライ・茎わかめサラダ・牛乳・バナナ
先週あんな文章を書いたら雪が降り始めた。私のせいだろうか。皆、「交通機関が麻痺して・・・」などと大変そうに話しているが、どこか嬉しそうである。
さて今日はシシャモフライ。「シシャモ」という言葉を私たちは違和感無く使っているが、普段食べているシシャモは、実はシシャモではないという話は一度くらい耳にしたことがあるかもしれない。我々が食べるシシャモの多くは海外から輸入される「カペリン(カラフトシシャモ)」と呼ばれる代用魚である。本物のシシャモは「本シシャモ」と呼ばれる。本シシャモはほぼ北海道でしか獲れず、サイズも大きい。市場に出回る多くのシシャモはカペリンであり、今日のランチのシシャモもそうである。
では、私たちは偽物を掴まされ、だまされていたのだろうか?私は幼少の頃からカペリンをシシャモとして親しみ、美味しく味わっていた。本州にお住まいの多くの方もそうだろう。よって、味わったことの無い本シシャモを食べてもシシャモと認識できないかもしれない。だから私にとってカペリンがシシャモであり、本シシャモこそが偽物となる。北海道の人にとってはそれが逆になる。法律上シシャモ表記で問題が無く、本物は見方によって違う。
そもそも本物とは何か?焼失し再建した金閣寺は本物か?50年前の敬和と現在の敬和は変わらず本物か?常に流れていく川はいつも本物か?演歌歌手の歌の声、癖、節を完全コピーしたAIは本物ではないのか?そして脳細胞すら日々入れ替わっていく私たちは、本物と言えるのか?
本物とは何か、ということに興味を持った方は、是非「テセウスの船」というパラドクスを調べてみて欲しい。そして私にとって、シシャモが本物かどうか識別する方法はシンプルに「美味いかどうか」である。その意味でこのシシャモは間違いなく本物であり、そのシシャモがランチにあることによってもたらされる楽しさは、本物以上なのだ。
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