毎日の礼拝

校長のお話

2019/10/08

「あきらめの向こうに」(詩編 121編1~2節)

 人には得意なこと不得意なことがそれぞれあります。不得意なこと、嫌なこと、苦手なことをどのようにやり過ごしていますか?私は本当にぐずぐずしています。逃げ切れないのはわかっているのに早めに準備することができません。いつもぎりぎりになってしまします。やらない理由やできない理由を探していますし、先延ばしにできる可能性をいつも探っています。自分のそんなところが嫌いです。なんとかごまかそうとしてもごまかしきれるものではないし、逃げ切れることでもないとやっとわかってきました。

 

 課題はよく壁にたとえられます。壁に遭遇したときあなたはどうしますか?一般的には「乗り越える」ことが正しい対処でしょう。しかし、他にやり方は無いでしょうか?できればユニークでやってみると面白そうなものや、自分の得意なやり方がいいと思います。たとえば、はしごをかける 飛び越える、壁が切れるまで遠回りしてみる。穴を掘ってくぐり抜ける いっそのこと力任せにぶちこわす。考えると楽しくなってきます。そうすると後は具体的にどうすればそうなるのかを考えることもできます。
 私は想像で逃げ切る事や、夢のように魔法が使えて物事が完成したり、別人になって知らん顔で通り過ぎることを思い浮かべます。考え尽くすと「そうはいかないよなあ」とやっとあきらめて課題や仕事、〆切と向き合うのです。このぐずぐずやぐだぐだは最早私にとって儀式です。あきらめることからのスタートです。

 

 さて、本日の聖書です。この詩の語り手は、目を上げて、山々を仰ぎ、不安な心で「わたしの助けはどこから来るのか」と問うています。この時の語り手は親しい家族や知人と別れ、これから一人で旅立とうとしていました。決して安全な旅ではありません。追っ手がせまる命がけの逃亡です。険しい小道や深い淵や谷間を歩き、野獣と盗賊の潜む山々を越えて旅をしなければなりません。愛する家族や知人との別れは辛く、助けを切に求めずにはおれない不安な心境であったことでしょう。
 この詩人は、そんな不安な気持ちを抱きながら、山を見上げ、これを創造された神に目を向けました。山々がどんなに危険に満ちていても、どんなに多くの困難が待ち受けていたとしても、神がその一切を創造されたのであれば、神はこの歴史をも支配し、わたしの困難、危険からも助けることができるはずではないかということに気づかされたのではないでしょうか。そうだ、誰もこのわたしの不安な気持ちを和らげてくれることは出来ないけれども、今解決方法は無くて逃げることしかできないけれど、「わたしの助けは主から来る」のだという強い思いです。
 現実の困難にだけ目を向け、そこに目を奪われて生きている人には、自分に向けられている神の助けを見ることはできません。あきらめて途方に暮れて、それでもたった一つ、私たちを創られた神様を見上げる時に希望があるのです。

 

 次の3節では見守るという言葉が用いられています。原語では「シャーマル」と言いますが、語源をみていきますと、「目を注ぐ」の他に「愛する」という意味があります。見守る心は愛すること。愛するとは見守ることです。あきらめの果てに神様を見上げる時、神様が私を見守ってくださっていることに気づくのです。神様の見守りの内に立ち上がるとき、私たちは希望に満ちた一歩を踏み出せるのです。その一歩を確かめる一週間を過ごしましょう。