月刊敬和新聞

2019年7月号より「痛みの中から学ぶ」

校長 中塚 詠子

痛んでやっと意識する
 昨年夏から右手指先に湿疹ができています。割れて痛みますし、たいした出血量ではないのにシャツやパジャマに血がついているとぎょっとします。皮膚科で塗り薬をいただいているのですが、なかなか完治しません。
 思い当たる理由はあります。一日4~5回塗ってくださいと言われている塗り薬をきちんと塗っていないからです。指先がかさかさしたり割れたりしても私はさほど気になりませんが、そこに痛みやかゆみがあるととても気になります。特に痛みはいけません。何もしていなくてもじんじん痛むと他のことは何もしたくなくなります。人間痛みにはとても弱いです。パソコンなどキーボードを打っていると痛みがずきずきと響きます。そうなってやっと薬があったことを思い出し、薬を塗ります。状態が少し良くなると薬を塗るのを忘れ、また悪化して痛みとかゆみが出てくるという悪循環です。

痛みの中にうずくまる
 命にかかわる話ではありませんし、何かが決定的にできないというわけではありません。けれどもほんの少し指先が痛いだけで私はやる気がそがれ、痛みの中にうずくまってしまいます。じんじんと痛む指先が何にもまして大変なことになってしまうのです。痛む指先を胸の前でそっと抱えて背中も丸まりうつむく姿勢になるのです。
 痛みはどんなに小さくても人間にとっては一大事です。しびれや腫れは不愉快ではありますが、抱えていくことに慣れることができます。だんだん慣れてやり過ごすことができるようになり、その不愉快さを時々忘れることもできるようになります。痛みはそうはいきません。痛みには慣れることはできません。我慢して我慢してじっと耐えるしかないのです。

心の痛み
 肉体の痛みではなく、心の痛みはどうでしょう。私には同じに思えます。心が痛いと私たちはそこにうずくまり、痛みに縛られ、痛みに支配されていくように思うのです。ですから態度も言葉もとがってきますし、頭の中は自分の痛みでいっぱいになります。時には攻撃的になり、八つ当たりをします。
 痛い部分があると自分の痛みにだけ縛られていくのは人間の特徴の一つかもしれません。自分の痛みに精一杯で他のことや他の人のことまでは考えられなくなります。自分だけが大変で、自分だけが痛いのだと思い込んでしまうのです。

見方が変わる経験
 自分の痛みを誰かが代わってくれたのならどうでしょう。代わってくれるだけではなく、自ら進んで傷を負ってくださったのがイエスなのだと聖書は伝えます。しかも十字架にかかって身代わりになって命を代償にしてくださったというのです。信じられないことです。
 「私が痛い」「私が辛い」と自分にしか向いていなかった矢印の方向がひっくり返る瞬間です。私のために大きな傷を負い、痛みを担ってくれる存在があるのだと気づけることは大きな衝撃でもあるはずです。
 過去を振り返ってみると私のために辛さや悲しさを代わってくれた人が思い浮かぶのです。どれほど助けられたか、どれほど支えてもらったか、どれほど心配されたか、心当たりがたくさんあります。そこに気付くことができれば自分にしか向いていなかった心の矢印を自分以外に向けることができるようになるのです。それを愛とか信頼と呼ぶのです。
 自分の痛みに縛られうずくまるときにこそ、私の痛みを思い私の痛みに寄り添ってくれる存在に励まされるのです。その存在に出会ったと自覚できたならば、心の矢印を自分以外に向けることができるようになります。自分の内側だけではなく、外に向かって他者に向かって世界が広がっていきます。
 敬和学園での生活はそうした具体的な誰かを通してあなたの痛みに寄り添ってくれる存在と出会う時でもあります。そのことを自覚すること、自分の言葉で言い表すことができるようになること、それが敬和学園で成長することだと私は思うのです。