毎日の礼拝

校長のお話

2019/07/20

「そう言ってはみたものの・・・」(サムエル記上 8章19~22節)

 親に何かを頼むとき、おねだりをするときに「みんなが持っているから」とか「何でも言うことを聞くから」「いい子にするから」と言ったことはありませんか?私はあります。本当にみんな持っていましたか?2~3人いたら「みんな」になっていませんでしたか?「みんな」という言葉には安心感があると同時に無責任感が漂います。

 今朝読んでいただいた聖書箇所は12部族連合制を取っていたイスラエルの民が指導者のサムエルに対して他の国と同じように王を立てることを求めた場面です。戦いに勝つために他の国と同じように(みんなと同じように)王政に仕組みを変えて強い軍隊を作り勝ち残ろうと考えたのです。サムエルは「それは良くない」ことだと考えました。それでも祈って神様に聞いたのです。神様は民に対して「はっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」と命じます。具体的には、息子たちが徴用されること、すなわち兵になったり王のために畑仕事をしたり、武器や戦車をつくることでしたし、娘たちは香料を作り、料理をつくり、パンを焼き、兵士のために働くということでした。王家とその軍隊を養うために畑が没収され、残された畑からの収穫の10分の1を収めることになり、さらに民は王の奴隷となるというのです。自分たちが望み、願い、選んだ王のゆえに泣き叫ぶ事態になるがそれでもいいのかとサムエルは迫ります。しかし、イスラエルの民はどうしても王が必要で、他の国と同じようにしたいのだと譲りません。イスラエルの民は王をいただいたことによって戦う国になりました。人々の負担は重くのしかかりました。やがてダビデが王に選ばれ、イスラエル史上最も領土を広げ、最も強く、最も安定した王国を統治しましたが、戦いのない平和な日々ではありませんでした。それでもいいと一度は納得した負担が人々に重くのしかかったことは容易に想像できます。そしてこの負担はなんとかならないのかと不満が出るようになるにも時間はかからなかったと思うのです。

 「言うことを聞くから」「お手伝いをするから」「生活を改めるから」「きちんとするから」その時心からの言葉だったとしても、たとえその場をつくろう言葉だったとしても、私たちはその言葉に責任を持たなければなりません。反省文や志望動機書であればなおさらです。言葉にしたことが行動やしくみに反映されているかを私たちは見られています。その場限りの取り繕った言葉には私たちを成長させる力は宿りません。

 王を願ったのはイスラエルの人々です。自分たちが願ったのだから王が与えられたのです。民はどのようにすべきだったのでしょうか。

 明日は参議院選挙の投票日です。また、生徒会役員選挙も立候補受付が始まりました。誰がどんな主張をするのかしっかり聞きましょう。そして自分で判断して投票しましょう。立候補者は自分の言葉に責任を持ち、行いや態度で示してほしいものです。立候補者だけでなく選挙管理委員会をはじめとする選挙に携わる人も同様です。いい加減な組織が運営する信頼できない選挙だと思われてはとても残念です。一票を投じた相手がどのように行動するのか、その主張を実現させるために私たちは何を我慢したり負担したりするのか、よく考え納得しなければなりません。その時の言葉に流されて、すぐに不満に思うのも私たちの弱さの一つです。

 一年生は敬和生となって初めての長い長い夏休みに入ります。入試の時に言葉にした志望動機を今一度思い起こしてください。自分はどのように成長していますか、スタートの気持ちを大切にできていますか?2年生3年生も同様です。これから成績が送られてきます。そこにある数字はみなさんの価値を決定するものではありません。しかし、前期の取り組みを表す数字ではあります。その数字には誠実さや一生懸命さも現れて(含まれて)いるのです。たった一票では世の中や学校は変わらないかもしれません。しかしその一票を投じた責任、見張りの役目や協力の役目があるのです。その場しのぎの言葉は忘れ去られてしまうかもしれません。しかし言葉には気持ちがこもるのです。言った人にも聞いた人にも残るのです。言ったことをすぐ忘れ、不満を持ち、人のせいにし、その場限りのいい加減さに流されてしまう弱さを抱える私たちです。それをわかってなお見守ってくださる神のまなざしに応える歩みが夏休みになされるようにと願います。